東京の「中心」と「境界」を考え抜いて見えてきたこの街の性格

新宿、千住、両国…
岡本 亮輔 プロフィール

東京を襲ったふたつの大災禍

両国回向院の少し北にあるのが東京都慰霊堂だ。ここには2つの大災禍の犠牲者が祀られている。

東京都慰霊堂

1923年9月1日、相模湾北西部を震源にマグニチュード7.9の巨大地震(大正関東地震)が発生した。東京の40%以上が焼き尽くされた。燃え続ける火のせいで、同日夜半、東京市の気温は46度を観測したという。犠牲者のほとんどは火事によるものだ。

特に被害が大きかったのが、隅田川沿いの被服廠(ひふくしょう)の跡地だ。被服廠とは軍服の支給を担当した組織だ。震災当時、被服廠はすでに赤羽に移転しており、2万坪ほどの空き地に被災者が家財道具を持って集まった。

夕方、彼らを襲ったのが火災旋風だ。都市部で大規模火災が生じると、強烈な上昇気流をともなう炎の竜巻が発生することがあるのだ。周辺と合わせて4万4千人以上が焼死した。その慰霊のために、1930年、同地に震災記念堂が造られた。

しかし、わずか15年後、再び東京に悲劇がもたらされる。1945年3月10日の東京大空襲だ。

 

現在の中央区・台東区・墨田区・江東区が重点的に狙われ、木造家屋の密集地帯に38万発もの焼夷弾が投下された。虐殺としか言いようがない。数時間のうちに10万人以上が焼死した。

犠牲者が多かった場所の一つが隅田川にかかる言問橋(ことといばし)だ。西岸の西浅草・入谷方面と東岸の向島方面をつなぐ橋である。今では、東京スカイツリーの絶好の撮影スポットだ。

大空襲の日、炎から逃げ惑う人々が西岸と東岸の双方から言問橋に押し寄せ、橋の上で合流してしまう。将棋倒しが起こり、数千人が動けなくなった。そこに焼夷弾と火災旋風が襲いかかり、数千人が一瞬で炭化した遺体となった。

言問橋はその後改修されているが、親柱の一部などには焼夷弾で焦げた跡や焼死者の脂の痕跡が残っているという。言問橋西詰の隅田公園にも、橋から切り出された黒焦げの縁石が置かれている。

空襲の犠牲者たちは震災記念堂に合祀されることになった。戦争犠牲者の慰霊追悼は、東京ではなく国がやるべきだという意見もあったが、用地確保の問題などから、震災記念堂が流用された。

こうして大震災と大空襲の犠牲者を合わせた16万3千人が合祀され、東京都慰霊堂に改称された。慰霊大法要は毎年2回、春(3月10日)と秋(9月1日)に営まれている。

東京都慰霊堂が現在の場所に出来たのは偶然だが、東京東端という周縁性と不幸にも共鳴している。街の境界をめぐりながら、江戸東京の歴史をふり返ってみてはどうだろうか。