東京の「中心」と「境界」を考え抜いて見えてきたこの街の性格

新宿、千住、両国…
岡本 亮輔 プロフィール

北端の街・千住

江戸東京の北端は千住として良いだろう。小塚原(こづかっぱら)に犯罪者の刑場が置かれていたのだ。

江戸期、犯罪は国を統治する将軍の権威を傷つけるものと見なされた。したがって、刑罰は将軍の名誉を回復し、それを周知するものでなくてはならない。そのため、刑罰は見世物として執り行われる必要があった。

小塚原刑場は、こうした刑罰の見世物性を意識して、江戸の北の境界に設けられたのだ。刑死者の遺体は浅い穴に放り込まれ、軽く土をかけただけで放置された。雨や風があればすぐに露出し、あたりを野犬やイタチが徘徊した。明治期に廃止されるまで、約24万人が亡くなったとされる。

こうした刑死者たちの霊を弔うための寺が小塚原回向院である。隣接する刑場跡地には、1972年に回向院から分院独立した延命寺がある。同寺境内の首切地蔵は日比谷線からも目に入る。

小塚原回向院の刑死者の供養碑。一番左は鼠小僧のもの。
延命寺の首切地蔵

このように言うと、小塚原は前近代の象徴のように思われるが、同地では前近代と近代を画すような出来事も生じた。それが1771年の腑分け、つまり人体解剖である。

腑分け自体は以前にも行われていた。だが、それらは漢方の誤った知識に基くもので、人体と知識が食い違うことがあると、人種によって人体構造が異なるといった推測をするレベルのものだった。

これに対して、小塚原の腑分けでは、杉田玄白たちが解剖学書『ターヘル・アナトミア』を持って臨み、その正確さを確認した。そして、医学用語の訳語が作り出され、『解体新書』の出版は蘭学そのものの価値を広めたのである。

その意味で、小塚原は西洋医学の揺籃の地でもある。今でも同寺の入口には、『解体新書』の扉絵をかたどった青銅板が掲げられている。

 

東端を区切る隅田川

江戸東京の東端は、隅田川が分かりやすく地理的に区切っている。

隅田川にかかる両国橋は、その名の通り、武蔵国と下総国をつなぐ橋であり、両国の街は江戸期最大の繁華街の一つであった。

両国にも回向院という名の寺がある。小塚原回向院は、そもそもは両国の支所的な位置づけであった。同寺開創のきっかけは明暦の大火(1657年)だ。江戸市中の半分以上が焼け、死者数は10万とも言われる。そして死者の多くは身元不明であり、こうした無縁の人々を弔うために築かれた万人塚が回向院の元となった。

回向院が両国に位置することは宗教地理的に興味深い。社会秩序という点から見れば、中心の江戸城に近づくほど確固としたものになり、周縁に行くほど緩くなる。江戸において、両国は、秩序からもっとも遠い場所だったのだ。江戸東端という両国の立地が、あらゆる人を弔うための寺院を生み出したのである。

今でも回向院の敷地に入ってゆくと、最初に目に入るのは巨大な力塚だ。回向院で勧進相撲(かんじんずもう)が行われたことにちなむ。勧進相撲とは、公共事業などを行う際、寄付金集めのために行われた相撲興行だ。両国が境界の街だからこそ、力士という異形の者たちのための場所が作られたのだ。

他にも、無数の供養碑を見ることができる。火事・地震・海難による事故死者、罪人などに加え、馬・猫・犬・オットセイといった動物供養碑が立ち並ぶ。

ペット供養のための卒塔婆(両国回向院)