ペットブームに隠れた未知の領域、猫の「心」を探る旅

猫はなぜ人を癒やせるのか
眞並 恭介 プロフィール

私はこの正月に、イタリアで精神病院の解体を訴え、患者を地域に住まわせる精神保健改革を行ったフランコ・バザーリアを描いた映画(「むかしMattoの町があった」)を観た。イタリア中の精神病院の廃止を決定する法律が国会で可決されたのは1978年。試行錯誤し多くの犠牲を払いながらも、患者たちは人間として復権を果たす。

一方、日本の精神科の治療現場では、何種類もの薬の大量処方が相変わらず幅を利かせている。その背後には、精神疾患の患者への偏見、地域社会で受け容れるための支援体制の不足がある。

患者は長く病院に留め置かれ、そのストレスが暴力や自傷行為を誘発し、ますます主治医を大量処方へと駆り立てる。

その悪循環を断つのに、アニマルセラピーの出番があるのではないか。人や社会との関係で強まる不安や恐怖を和らげ、人としての尊厳を保ちながら安心して暮らせるように、猫はその小さな手を貸してくれるだろう。

天性のセラピスト

治癒は難しく、完治が望めないなら、せめて癒やしを――。

癒やされざる人たちがヒメとふれあい、ヒメを抱く。犬のようには訓練が利かない動物である猫は、どのようにして人を癒やすことができるのか。猫の癒やしの謎に迫ることが本書のメインテーマである。

「猫はなぜ人を癒やせるのか」

すぐに答えの出る問題ではないが、私なりのアプローチで迫ってみた。アニマルセラピーの効果についての疫学的、生理学的研究もあるが、猫の心に近づきたい私には、動物行動学や動物生態学がとらえた動物の心の進化や感覚のありようが参考になった。

動物たちには精神がなく「自動機械」にすぎないとするデカルトの説に、いま賛同する人はまずいないだろう。ジャック・デリダやジル・ドゥルーズの動物とくに猫に関する言説は、猫の心を求めて踏み迷っているときに道標の役割を果たしてくれた。

しかし、ノンフィクションを書く者としては、目の前にいる猫、そして猫と人のふれあう姿を記録し、そこから自分の思考を紡いでいくほかない。

折しも原発事故によって人が住めなくなった広大な地域には、猫や犬、牛、野生動物たちが共存し、私には動物の心のフィールドのように思われた。放射性物質に汚染された大地に立って、そこから生きものの命にかかわる叡智のかけらなりとも見いださなければ、あまりに悔しいではないか。

人間には探りようがない、窺い知れない心をもつ猫は、かわいさに甘んじ、ペットであることに自足することもできる。だが、人間に頼らずに自力で生きねばならなくなれば、心の奥底に潜んでいる野性を目覚めさせ、ときには強烈な野性をむき出しにする。

人が複雑な心をもっているように、猫も深い心をもっている。野生動物からペットになった約一万年の間、猫たちにどれほどの心の葛藤があったことだろう。そこで形成された猫の心は、人間の心に近づき、ふれあうことができる。

癒やしの場において、言葉が通じないことはマイナス要因にはならない。むしろ人間と猫、双方の心の結びつきを強めてくれる。猫は人間社会の価値観や偏見から自由であり、人間の障害は障害とならない。

訓練が苦手な猫は、天性のセラピストといえる。猫は人間のセラピストのように悩める人の話を傾聴し、言葉で支援できるわけではない。医師なら薬で、カウンセラーなら言葉で癒やすであろうが、猫はごく自然に抱かれ、うちひしがれている人にひたすら寄り添っているだけ。猫はただ、あるがまま、ここにいるだけでよいと、自分に代わって肯定してくれる存在だ。

猫は野性を秘めながら籠の鳥のようにも生きられる。人間の窺い知れない深い心をもって、群れず、媚びず、のんびりとそこにいる。

こんな猫に私たち人間が返礼できるものといえば、食べ物、抱擁と愛撫、そのほかに何があるだろうか。

読書人の雑誌「本」2017年3月号より