天才すぎて傍迷惑だった葛飾北斎、その門人が生きた「波乱の時代」

時代を超えて愛される芸術家の素顔
梶 よう子

妖怪画に込められた皮肉

父親の死後、35歳で高井家11代目の当主となったが、京や江戸で青年期のほとんどを過ごした鴻山は、商売の修業などまったくしていない。郷里でも文化人として名を馳せ、実質の経営は4歳下の弟が担っていた。

だが、壮年から老年に至る時代は、鴻山の人生をめまぐるしく変えていく。世の流れが、倒幕、維新への道を歩み始めていたからだ。

多くの藩の御用達であった高井家としても生き残る術を考えねばならなくなる。が、さすがは鴻山である。商売には頓着せず、当初は尊王攘夷論に傾倒しながら、松代藩の佐久間象山などと交流を持ち、次第に開国派へと考えを移行している。 

幕府(一万両の献金!)や、志士たちのスポンサーになり、さらに訪れた者たちへは密談の場所として座敷を提供したりしている。現在も『高井鴻山記念館』には、当時のままの抜け穴が残されており、鴻山が多くの志士たちをかくまい、援助していたことが窺える。

松平春嶽や大久保一翁から、幕政参加の要請を受けてもいた。様々な理由から固辞しているが、一人の教養人として見識者として一目置かれていた人物であることは間違いない。

明治になると文部省に出仕し、私学校も東京に設立している。

 

鴻山は明治16年、78歳で亡くなった。

絵師としては、花鳥図、山水画を能くしたが、晩年は、妖怪図を描き続けた。眼を閉じると妖怪変化が現れるといったという。三つ目や一つ目の入道、鼻が巨大な翁。獣に似た妖。だが、恐怖を与えるおどろおどろしい妖たちではなく、どこか愛らしくも見えるのである。鴻山は維新で多くの友人を失い、その財力を利用された。

描かれた妖怪たちは、その時代を生き抜いた者たちの化身であり、時の移り変わりも激変も、人の苦楽でさえも、皆、妖怪に変化するのだという皮肉と達観が込められているような気がしてならない。

北斎との交流は、小布施に戻ってからも続き、鴻山は、自分の書斎の横に碧漪軒と名付けた北斎のためのアトリエも用意している。

ふたりの合筆である、ひなだん幟や、北斎の原画を元に鴻山が描いた屛風絵『象と唐人図』などを見ても、非常に親しい関係であったことを物語っている。

祭り屋台の天井画(北斎館に展示)と、岩松院本堂の天井画は、小布施観光の目玉である。鴻山は、北斎の画を、時代を超えるものとしてたしかな形にして遺したのだ。

北斎の死後、娘のお栄は行方知れずになった。諸説あるが、鴻山を頼り、小布施で暮らしていたらと、勝手に想像を膨らませている。

読書人の雑誌「本」2017年3月号より