エイドリアン・トミネの Killing And Dying という作品集は2015年の10月にアメリカとカナダで刊行された。22ドル95セントのハードカヴァーだった。
図書館の分類ではグラフィック・ノヴェルズだ。そうとしか言いようがないのだろう。透明なカヴァーには表題が、そしてその袖には、内容に関する案内の文言が白い文字で印刷してある。
そのカヴァーをはずすと、表紙は見開きのイラストレーション一点で構成されている。ADRIAN TOMINEとstoriesという文字があるだけのスペースの、いちばん手前、やや右に寄ったところがワン・ブロックの端で、そこには24時間営業のデニーズがある。
見慣れたあの看板が立ち、信号、街灯、街路樹などに加えて、新聞売りのボックス、郵便ポストなどが歩道にある。
デニーズを越えた向こうの空間にはなにもないが、左側の奥には、さほど高層でもない建物や低層の建物が建ち、右側もおなじような景色だ。どの建物にもさまざまな企業が入っているのだろう。
道路は立体交差し自動車が走り、駐車場にも自動車はあるけれど、人の姿は見えない。ものの見事に、人はひとりもいない。晴れた日の夕方だ。オフィスでは勤務時間が終わる頃だ。
この景色は現実だろうか、と問うことに意味はほとんどない。
解釈としては心象だろう。アーティストがこれまで自分の記憶のなかに積み重ねて来たものが、絵画的に統合された結果として、この絵が生まれた。
そしてその絵を見ながら、これはすごいねえ、と僕は感嘆する。すごいとは、どういう意味なのか。
すべての物が本質的にテンポラリーである景色だ。なぜかテンポラリーと片仮名書きしたくなる。ごく一時的な。仮の。かりそめの。明日にはもう跡形もない。そのような意味の、テンポラリーだ。
そのテンポラリーさは、人々が過ごしていく日々というものと、根源的に相いれないものだ。こうであってはいけない、これは良くない、と僕はその景色を見ながら確信する。
しかし、そんなことをひとりで確信しても、どうなるものでもない。
そのテンポラリーさが、問いかけてくる。お前とは、なになのか。どこで、なにをする人なのか。この問いかけに対する回答のない人たちが、トミネの描くグラフィックないくつものストーリーの主人公たちだ。