「都議会のドン」内田茂、引退の真相〜本当に小池の勝ちなのか?

激震の都政・内幕レポート
鈴木 哲夫 プロフィール

石原の息子を「人質」にとって…

内田氏が、「ドン」にまで上り詰める転機となったのは、91年の都知事選挙だ。

このとき自民党は小沢一郎幹事長(当時)が中心となって、元NHKキャスターだった磯村尚徳氏を擁立。国政でのPKO法案成立で公明党の協力をもらうため、自公で協力して都知事選に臨んだが、これに反発する都議会自民党は現職の鈴木俊一氏を立て、真っ向から対立した。

このとき、小沢幹事長が都議会自民を切り崩すために接触したのが内田氏だった。

当時東京選出の自民党国会議員は、伝統的に宏池会と政科研という二つの派閥の系列議員が主流で、都議会議員もほとんどがその両派閥の系列だった。そんな中、経世会に属する小沢幹事長は、この都知事選挙をきっかけに、経世会の東京進出を図り、内田氏らに接触したのだ。

「選挙の結果磯村さんは敗れましたが、その後、国政や自民党本部では経世会の天下が続くことになりました。そして内田さんは、この選挙をきっかけに、地方議員ながら中央に直結するようになったのです。

例えば地方議員が総理大臣や自民党幹事長に会うには、普通はその地域の国会議員を通さなければ会えないのに、内田さんはそんな慣習は飛び越して直接会った。国会議員と同格、ということです。政権や党本部とパイプを持ち、直に話ができる存在として力を持つようになったのです」(自民党ベテラン議員)

また、内田氏が力を蓄えていった背景にあるのは、都庁職員との強固なパイプだ。

内田氏は選挙で圧倒的な強さを誇り、ほとんど選挙区に戻る必要がなかったため、常に都議会の自民党控室にいた。このため都庁幹部は、困ったことがあったらすぐに内田氏に会いに行けた。内田氏はそうやって都庁職員の人心を集めていったのだ。30年にわたって作られた「内田人脈」は、都庁全体に張り巡らされることになる。

さらに内田氏の選挙区である千代田区には、大手企業の本社が集積している。その地区を仕切る内田氏へは、当たり前のように企業や個人献金なども集まるようになる。人脈も資金も、急速に蓄積されて行ったのだ。

その内田氏の政治手法の特徴として見落とせないのは「変幻自在」という点である。

実は、都議会自民党は磯村選挙で敗れたあとの都知事選でも、擁立した候補が連敗している。95年都知事選挙で擁立した石原信雄元官房副長官は青島氏に敗れ、99年には元国連事務総長の明石康氏が石原慎太郎氏に敗れた。

 

ところが、選挙では対立していた候補が当選するや否や、内田氏は新たな都知事との共存を図り、やがて手のひらに乗せ、最後は主導権を握るのだ。

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「石原知事の場合が分かりやすい。内田さんは石原氏が都知事に就任するや、その人気を利用しようと考えた。たとえば、石原氏の子煩悩を利用して、伸晃氏と宏高氏の二人の息子をいわば『人質』にしたのです。

ご承知の通り、二人とも自民党の衆議院議員。伸晃氏を都連会長職に据えて、内田さん自らが幹事長としてお目付け役を務めるなどして、石原氏に『ご子息二人は面倒を見てますよ。生かすも殺すも分かってるでしょうね』とプレッシャーをかけるのです」(前出ベテラン議員)

そうすることで、石原氏は都議会自民の選挙応援に入り、さらに都議会自民の政策にも協力したのだ。

その一方で、剛腕ぶりも見せる。09年に民主党政権が誕生し、都議会自民党も議席を大きく減らしていた頃のことだ。内田氏自身も落選していたが、都連幹事長の任にそのまま就くという異例の人事で君臨。都議会民主党に対して、あからさまな切り崩しを見せつけたこともある。