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日本人はイスラームとどう向き合ってきたか

イメージから知識へ、知識から理解へ
小村 明子 プロフィール

日本人とイスラームの歴史

まずは過去における事例のいくつかを見てみよう。

日本人とムスリムとの直接的な邂逅をもたらしたのは、戦前および戦中時における大陸政策および南方政策が展開されていた時期にあたる。

この時期から、日本政府が大陸政策を推進するためにイスラーム(当時は「回教」と呼ばれていた)が調査研究されるようになった。

一方で日本政府は中央アジア出身のムスリムたちを招聘、あるいはロシア(当時はソ連邦)からの弾圧を受けていたムスリムの亡命を積極的に受け入れた。それは、日本国内でイスラームを擁護する動きへとつながるのである。具体的には1938年の東京モスクの開設、亡命ムスリムの子弟のための回教学校の開校等である。

このように、日本国内にイスラーム的な環境が生まれていった。

 

一方、回教政策に従事する中で、ムスリムになる日本人が幾人か存在した。彼らに共通しているのは、ムスリムとの直接的な出会いである。中国西北部、いわゆる満蒙は回族と呼ばれるムスリムが居住する地域であり、中央アジアの出入り口ともなっている。

もちろん、調査活動という職務に従事するためにムスリムと接触し、あるいはイスラーム研究をしているのであるが、彼らと直接的に出会い、そして友情を育むことによって、イスラームに共感を覚えて改宗した人びとがいた。

では彼らは本当にイスラームを理解して改宗したのであろうか。彼らのイスラーム理解は如何なるものであったのだろうか。

〔PHOTO〕gettyimages

日本の大陸政策を反映する、イスラームの宗教教義を説明した当時の文献資料がいくつか存在する。それらを読み解いていくと、どのような経緯でムスリム(イスラーム)と出会い、その知識を得て、理解に導いていったのかを垣間見ることができる。

例えば、日本人で初めてメッカ巡礼をした山岡光太郎は、道中のインド・ムンバイでイスラームに改宗した。それ故かイスラームの宗教教義を同行者のタタール人ムスリムから突貫工事的に習って、メッカの地に及んだのである。その山岡は改宗当初イスラームの唯一神アッラーを「天照大神」と同一視することで理解しようとした。

また貿易業を営む中でイスラームに触れて改宗した有賀文八郎は、日本国内でイスラームを広めようと活動をした。彼は、その中で唯一神アッラーを「天之御中主神」と同一視して布教活動を行っていった。

このような改宗者の考えは、神道の神々と同一視することで唯一神の本質を理解しようとしたことをうかがわせている。

だが、全ての改宗者が他の慣れ親しんだ神々と比較、同一視することで理解に導いていったわけではない。改宗者であろうがなかろうが、ムスリムとの直接的な出会いと友好関係を重ねることによってイスラームの本義をよく理解していた日本人もいる。

例えば、大陸政策に携わり、複数の著述もある須田正継や瀬川亀は、唯一神アッラーを神道の神々に例えることなくそのまま理解し、かつイスラームの本質についても正確に記述していた。

しかしながら、彼らの著述のいくつかを詳しく分析・考察すると、やはりより身近な「日本的なもの」と比較することで理解を深めようとしているのである。

例えば、仏教など先祖代々からの慣れ親しんだ宗教との比較、あるいは日本人の道徳観に類似性を見出すこと――いわば、日本人としての宗教的および文化的背景に即してイスラームを理解していったのである。

この理解への道程は回教政策が終焉した終戦以降にも見られた。

それが、当時は難しかった海外留学、あるいは石油や投資ビジネスに従事する中でイスラームに共感し理解を示した日本人である。というのも、戦後の焼け野原から復興して高度経済成長期を迎えて先進国と呼ばれる国々の水準に到達した頃であっても、ムスリムとの直接的な邂逅は難しい時代であった。

例えば、1970年代の日本国内のムスリム人口は公称で3万人程度とされていた。人口が少ないのだから、ムスリムとの直接の出会いの場は、おもに海外にあったといえる。

またその上で、日本国内でのイスラームについての主な情報源は、ニュース報道を媒体としていた。中東戦争や各地の内戦などである。ときには、イスラーム美術や建築などのオリエンタルなイメージをもたらす報道もあったが、やはりインパクトがあるのか、ネガティブなイメージが強く、誤解をもたらしていたことがいえる。

すなわち、日本国内のムスリム人口が少ない上にこのようなネガティブなイメージが定着している中で、イスラームを積極的に知り、理解していこうとするきっかけは学問の習得や職務の従事にあったのである。