と、これは、読者諸氏がよくご存じの『坂の上の雲』の冒頭の、出来の悪い贋作である。
実際の司馬遼太郎さんの小説は、「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」という印象的な一文で始まる。舞台はもちろん、讃岐ではなく伊予、松山。ではなぜ讃岐なのかという話は、後述する。
さて、『下り坂をそろそろと下る』(講談社現代新書)では、明治近代の成立と、戦後復興・高度経済成長という二つの大きな坂を、二つながらに見事に登り切った私たち日本人が、それでは、その急坂を、どうやってそろりそろりと下っていけばいいのかを、旅の日記のように記しながら考えている。
もちろん、世の中には、「いやいや、この国は、もう一度、さらに大きな坂を登るのだ、登ることが出来るのだ」と考えている人もまた、多くいることは承知している。
あるいは、先に私は、「私たち日本人が」と書いたが、その頃の日本人と、いまの日本列島に住む若者たちは、もはや同じではあり得ないのだという考えもあるかもしれない。
私はそうも思っていないが、かつての輝かしい(と見える)日本人と、いまの日本の若者たちの、ちょうど中間に立つ私たちの世代は、「いや、そうは変わっていませんよ」とか、あるいは、「問題の本質には連続性がありますよ」というようなことを語れる数少ない立場かもしれない。
まぁ、とりあえず、そういったことどもも考え合わせながら、ゆっくりと、この長い坂を下っていければと思っている。
香川県に足繁く通うようになって5年半ほどになる。縁あって、善通寺市にある四国学院大学に新しい演劇コースを作るお手伝いをしてきた。
弘法大師の生まれた総本山善通寺のお膝元に、米国南部長老教会系のミッションスクールがあるというのも不思議な風景なのだが、ここに、中四国地区初の本格的な演劇コースを作ることになった。
そもそも学長が「これからはコミュニケーション教育が大事だ」と考え、ネットで検索をして、私が大阪大学で行っている授業に関心を持ち、わざわざ自ら見学に来たことから話が始まった。
アメリカの大学は、そのほとんどがリベラルアーツ(教養教育)を基軸としており、そこには必ず演劇学科がある。この演劇学科は、もちろん専攻生向けの授業も出すが、それ以外に、他学部他学科向けにコミュニケーションに関わるような授業も出している。副専攻で演劇をとっている学生も多くいて、医者や看護師やカウンセラーなど、対人の職業に就く者は、それを一つのキャリアとさえしている。
私はこれを評して、「日本では、大学で演劇をやっていたなどと言うと就職できないが、アメリカでは演劇をやっていたことで就職が有利になるのだ」とうそぶいてきた。
しかし、こういった戯れ言も、何百回も言い続けるとやがて真実味を帯びてくる。風向きが変わってきたのだ。