加藤紘一が10年も前に予見していた「日本会議の危うさ」

歴史を見通す確かな眼力
魚住 昭 プロフィール

ここで読者に留意してもらいたいのは、1983年、生長の家が教団の代替わりに伴い、政治運動との絶縁を宣言したことだ。したがって現在の生長の家は日本会議とかかわりがない。

谷口雅春に心酔する椛島や、伊藤哲夫(後の安倍ブレーン)、衛藤晟一(後の安倍側近の参院議員)ら、後に日本会議の中核メンバーになる人々は、この路線転換で教団から排除されたり、自ら離脱したりした。

さて、椛島らが事務局を担う「国民会議」と「守る会」のその後の活動に移ろう。1995年6月、自社さ連立政権の村山富市内閣時代に日本の過去の植民地支配や侵略的行為を反省する戦後50年決議が衆院で 行われたのを覚えておいでだろうか。

決議が行われる前、文案をめぐって与党内が紛糾した。社会党が主張するようにあの戦争が侵略戦争だったと認めるかどうか、アジア諸国への植民地支配に言及するかどうかが焦点となった。政調会長の加藤紘一らが与党間の合意を取りつけようと奔走した。

それに反対していたのが「参院のドン」村上正邦である。村上は「侵略戦争だと認めることなんて断じてできない」と突っぱねた。ならば、どういう内容にすれば了承できるのかと加藤らが文案づくりを繰り返した。

加藤が「これならどうです」と文案を持ちこみ、衆院の役員室で村上らに提示する。それを村上は自分の参院幹事長室に持ち帰る。

幹事長室には、椛島や筑波大教授の中川八洋ら右派の幹部たちが集まって応接間を占拠していた。

村上が持ち帰った文案を椛島や中川らに「どうだ」と見せる。彼らは「いや、これじゃ駄目だ」「この文言はああだ、こうだ」と言う。村上は加藤らに「こんな文案じゃ、受け入れられない」と伝える。その繰り返しで夜が更けていった。

 

最終的に加藤らが提示してきた文案は「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし」という言葉を挿入することで戦争や植民地支配を歴史上の事実として一般化するという妥協案だった。

そのうえで「我が国が過去に行った行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」とつづく。

村上が加藤から口頭で伝えられた文案はそうだった。これだと日本の「植民地支配や侵略的行為」を認めたことにならず、曖昧になる。そう思った村上はOKを出し、成文化されたペーパーを確認もせず、参院幹事長室に戻った。

そのペーパーをみんなに見せると「なんだ、これは! おかしいじゃないか」と言い出した。村上がペーパーをよく見ると「我が国が過去に行った」のあとに「こうした」が入り「行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し……」となっていた。これだと侵略戦争を認めたことになってしまう。以下は村上の回想である。

「椛島さんらはものすごい勢いで怒った。私が彼らをペテンにかけたと言うんです。なかには私のネクタイをひっつかまえて怒鳴る者もいて幹事長室は大騒ぎになった。だから私はそこで決断した。衆院が決議するのはもうやむを得ない。しかし参院では私が責任をもって決議させない。だから了承してくれと言った。それでどうにか、その場は収まった」

戦後50年決議は参院では行われなかった。両院一致が慣例なのに異例の事態である。裏返すと、椛島らの勢力は国会の動向を左右できるまでに巨大化していたのである。

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