市川團十郎という「業」〜海老蔵も受け継ぐであろう”運命”

芸とスキャンダルに彩られて……
週刊現代 プロフィール

八代目は謎の自殺

犬丸 初代の突然の死を受け、二代目が團十郎を継いだのは、まだ17歳の時でした。ある意味、劇界の孤児だったんだけど、そこからのし上がっていき、やがては「役者の氏神」とまで呼ばれるほどの名役者になります。

 「成田屋」の屋号が使われ出したのもこの頃ですよね。成田とは成田不動尊のこと。代々の團十郎は成田不動を信仰していて、二代目が生まれた時に「不動の申し子」とも呼ばれました。今でも襲名の行事が成田不動尊で行われているのはそのためです。

篠田 初代團十郎は歌舞伎に「神霊事」を導入し、自らを神のような存在へと昇華させたのです。災いや祟りを収めるのが成田屋=市川家であるという構図を作り上げた。

犬丸 順風満帆にいくかと思われた市川家ですが、その後の三代目は、病気のため22歳の若さで死去。次の四代目が襲名するまで12年間、團十郎は空位となります。その後、江戸中期になって「粋」や「洒落」といった美意識が生まれ出したころに活躍したのが五代目です。

 

 篠田監督は映画『写楽』を撮られていますが、劇中で五代目團十郎を演じたのが、当時の五代目中村富十郎さんでしたね。当時、富十郎さんは「劇中で成田屋! と言われるのは何ともいい気分だった。成田屋に生まれたかった」と仰っていました。歌舞伎役者は皆、團十郎の市川家にものすごい憧れを持っているんですね。

篠田 そんな歴代團十郎の中でも七代目の才能はすごかった。「歌舞伎十八番」(歌舞伎の演目)を制定し、鶴屋南北と組んで『四谷怪談』などアンダーグラウンドなものを演じ、市川家の伝統を壊して、新しい團十郎、新しい歌舞伎の形を作っていきました。

しかし、思わぬ災難に見舞われます。徳川幕府に「役者が大名より贅沢な暮らしをするとは何事か」と目を付けられ「天保の改革」により、七代目は江戸を追放されてしまうのです。

犬丸 歌舞伎は上も下もない無礼講の世界というのが暗黙の了解でした。そのため、吉原と並んで「悪所」とされ、常に権力者から目の敵にされていた。

photo by gettyimages

篠田 江戸を追放されてから8年、七代目は大坂など上方中心に芝居を打ちます。ようやく江戸に戻ってこられるようになった時、箱根の山に差し掛かると出迎えの人が沢山いたそうです。七代目は「俺の人気は留守の間も大丈夫だった」と思っていたら、成長した息子を目当てに集まっていただけだった。

七代目は息子が10歳の時に團十郎の座を譲ります。八代目は市川家の芸風ではなく『切られ与三郎』が当たり役と言われ、粋で上品で色気もあった。荒々しかった代々の團十郎とは違った魅力を持っていた。八代目團十郎が路上で唾を吐くと、ファンが錦の袋で掬い取っていたという伝説もあるほど人気を博しました。

 「お痰さま」の話ですね。

篠田 ただそんな人気者でありながら、32歳の若さで突然、自殺してしまう。結局、七代目と八代目の親子は、互いの芸風を伝え合うことができずに終わってしまった。

 自殺の原因は分かっていませんが、八代目團十郎は、30歳までに都の人気を一身に集めたい、それができたら死んでもいい、と願掛けをしていた説などがあります。

実はこの八代目が亡くなった日と十二代目の誕生日が同じなんですよ。ご本人からそれを伺った時は、その関係の深さに大変驚きました。

犬丸 亡くなった後には「死絵」いわゆる「追悼ブロマイド」も出回りました。八代目の死はそれくらいショッキングな出来事だったんです。