2017.02.12

このご時世に「政府」はいつまで古いOSのままなのか?

絵空事ではない〈未来政府〉のかたち
池田 純一 プロフィール

政府とは何なのか

それにしても、ニューサムは政府=Governmentをどのように捉えているのか?

先に記した自販機モデルを引き合いにすれば、ここでいう政府とは、主に市民向けの公共サービスを提供する運営主体ということになる。

そうした公共サービスを実践する姿を重視するところは、ニューサムが、政府の一員といっても議員ではなく、市長や副州知事を務めてきた経験の反映なのだろう。

公共サービスの効果的な提供ということに焦点を当てれば、それは市民の要望を迅速に応えることが(選挙対策としても)まずは大切であり、その「迅速性」を重視する点からITの活用が想起されるのも理解できる。オープン・ガバメントの発想も、そのような市民への応答性への配慮からまずは始まっている。

となるとこの場合、政府とは要するに「生活共通基盤」の維持・発展を、その共通基盤に依存しながら実際に生活している人たちが、直接間接に関わりながら実践していくための組織であることになる。

つまり、「自己統治」の手段としての機構・組織が「政府」であったわけで、となると所期の目的であった「自己統治」が実現できるのであれば、必ずしも特定の組織や役職者を常に抱えておく必要はなくなる。

そのような判断が生じる一つの理由は、自己統治の実践を尊ぶところから、司法の執行人である検事や警察署長などまで選挙で選ぶ伝統が、アメリカには根強くあるからといえるだろう。

「みんな=公共」のために尽くしてもらう人も必要だから、互いに融通をつけてある人物を選出し、その人にその「公共への奉仕」という役割を委ね、かわりにその人の報酬を皆で負担する、つまり税金から払う。そのような社会の仕組みを、開拓時代からの街の運営を通じて、街の記憶として積み重ねてきたからだ。

街の始まりとともに政府の始まりもあったことが記憶されているのだ。

裏返すと、そうした始まりにあった役割が他の方法で代替できて、特に常駐の人が必要でなくなれば、そのままなくしてもいいのではないか、と踏み込んで考えることができてしまう。

たとえば、こうした自己統治による変革に積極的に取り組んでいるのが、オレゴン州ポートランドだ(山崎満広『ポートランド』)。ホール・アース・カタログ世代が夢見た「統治のあり方」は、今ならカリフォルニアよりもポートランドで見られると思ってよいだろう。

ポートランドで実践されているような考え方が、ITを通じてより広く、より普遍的なものとして他の街にも、それこそ「プログラム」として伝播していく。場合によると、都市間競合によってよりよいプログラムが淘汰され、さらに磨きがかかっていくこともあるだろう。

鍵を握る「シェア」

もう一つ、ニューサムのいうCitizenville的な方向性がリアリティを持つ背後には、いわゆる「シェアリング・エコノミー」の台頭がある。

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