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元旦の朝、私が東京ディズニーシーで目撃した「ある不気味な光景」

数千人がスマートフォンを手に…
堀井 憲一郎 プロフィール

ちなみに、おでんつんつんも、チェーンソーも、そのギャグセンスが救いようもなく低かったが、でもあれは冗談を見せたかったのだとおもう。男タテ社会でときどき見られる「先輩が後輩に見せる冗談」である。

度を越した悪ふざけをしていると後輩が後輩の立場で笑ってくれるので、先輩としての偉そうな立場を保持したまま、冗談を言えるのだ。

そこでしか受けない冗談だが、男だけの狭い世界では重宝されている。体育会系のジョーク、ないしはヤンキー世界の冗談である。直接の後輩以外は誰も笑わないが、いちおう表面上は受けているので、そのサークルで生きているかぎり、ギャグにさえなっていないことに気がつかない。

彼らは、おそらく公開設定を間違えただけである。全世界公開ではなく、自分のことを尊敬している後輩限定公開にすれば幸せだったのに、とおもう。後輩は迷惑だけど。

個人が発信することのワナ

現場の感情を無視して、広く発信することを優先するという問題は、昔から、テレビ撮影や新聞雑誌の取材現場でいつも巻き起こっていた。

いままで特権的におこなわれていたことが、多くの人が真似るようになっただけである。(ユーチューバーなめんなよ、という発言に、特権的だという意識はまだ残っているが、ほぼ無意味な自意識である)。

行動するときは仲間や恋人や家族と一緒なのに、脳内の発信については、つねに個人単位で行う、というのが社会のスタンダードになっている。考えること、感じること、それは自分ひとりに突き刺さってくる体験だから、それは個人で発信しないといけないだろう、という考えがいま主流である。

それは何か違ってるんじゃないのかと、私はおもう。

個人の立場からのメディアへの発信というのは、そんなに簡単なことではないし、自分の感性だけを頼りに発信すると、ほぼノイズにしかならない。個人の意見をおおやけに向かって発信するのは、本来はかなりの訓練を必要とする作業である。

たとえば、個人から発信することと、個人的な感情を発信することは、厳然と区別しないといけない。区別したうえで、わかっていて混ぜるということが発信のひとつの技術であるのだが、そういう訓練がほぼ、なされていないように見える。

みんな、運さえよければ、ジャスティン・ビーバーがリツイートしてくれて、あっという間に有名になれるんじゃないか、と夢みて発信をしてるばかりである。ひたすらゴミのようなものが増えていく。

 

ネット世界は原理主義的

話をもどしての、そもそもの話として。

初日の出が出たときには、ほんとうは、どうすればいいのだろうか。

写真を撮る、のが正解ではないだろう。

私は、軽く拝めばいい、とおもっていた。

あまりホトケ様系統に見えないので(仏教的崇拝対象に見えない)、日本古来の神さまのひとつとして、神社でご神体を拝むがごとくに、ただ、拝めばいいとおもっていたし、いまでもおもっている。

ただ。

最近とみに、神社での拝礼のしかた「二礼二拍手一礼」というのが、やかましく言われるようになった。その昔は、ここまで言われなかったし、もう少し適当であった。

つい先だってまで(二十年前くらいというところ)神社に行ったときは、お賽銭を投げ入れて、かしわ手を二つ、あと合掌して、(願いごとがあるなら、ここでお願いする)、少し拝礼ぎみにお祈りを終える。こんなものだった。これで大きく間違っていないとおもう。二礼二拍手一礼に比べて、やや簡素化されている、というのにすぎない。

この簡素化した拝み方だと、いま昇ってきた太陽に対してもやりやすい。初日の出が上がったとおもえば、ぱんぱん、と手を叩いて、合掌、それでいいんである。叩かなくてもいい。拝めばいいのだ。ディズニーシーでもできます。

ところが、二礼二拍手一礼となると、それを、ディズニーシーのメディテレーニアンハーバー・ポンテペッキオ橋に立って、初日の出に対して、おこなうのは、すごく場違いな感じがする。小っ恥ずかしい。そんなことするくらいなら、とっとと写真を撮って、拝まずに退散したほうがいい。

そういうことではないかしら。

簡単な拝礼をしなくなると、太陽が拝めなくなるのではないか。