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元旦の朝、私が東京ディズニーシーで目撃した「ある不気味な光景」

数千人がスマートフォンを手に…
堀井 憲一郎 プロフィール

ひとつは、みんなカメラを持っているから(ほとんどの場合、携帯電話に付属した機能であるが)、自分で撮って、自分で保存したい、と考えるのだろう。

もうひとつは、映像記録をソーシャルメディアにアップするためである。

ツイッター。フェイスブック。インスタグラム。ライン。ユーチューブ。

SNSにアップするのは、おそらく、知り合いに見せるためである。近い人、親しい人にいま私が見ている風景を共有してもらいたい、ということだ。

ときに、知り合いを越えて、世界の人にも見せたい、という人たちもいる。世界発信である。

それにはやはり、自分で撮った写真でないといけない。だから、個々人で撮る。カップルで来ていても、いまカップルで楽しいということを世界に向けて、でも彼氏と彼女が別々に発信する。

まあ、世界は忙しいので、そういう情報は無視していくけれど、でも、発信者は、個人として発信していることが、とても大事なのだろう。

発信が個人単位になっているから、世界からの認証を欲しがることになる。

いま生きている近くの集団の親密度を少し増せば、わざわざ世界レベルでの承認を欲しがらなくて済むのではないかとおもうが、いまさら、そういうわけにもいかないのだろう。近所つき合いをうとましくおもい、町内会での催しは手伝わなくても、遠くで困っている人たちへのボランティアには積極的に参加する、というのと同じ構造だ。

日ごろつきあいのない人だからこそ、助けたい、というのが近年のボランティア活動の根にあるように見える。自分の生活エリアに関係しないところで、いいことをしたいのだ。「近くの他人より、遠くの他人」である。

〔PHOTO〕iStock

もちろん、その行為がむかしより劣っているということはない。そう考えられることによって、ボランティアはより活発になっているだろう。そういう時代になったというだけのことだ。

無視される現場の感情

「ここにある現在をないがしろにされることには慣れている」と書いたが、それも程度問題である。

共有空間を軽くないがしろにされているというケースでは「電車の中で化粧する女性」というのをおもいつくのだが、あれも、化粧女性が車両に一人なら、べつだん見てないふりをすれば済む。しかし、各車両にもれなく20人ずついたら、逃げられない。

視界内で化粧をされているかぎりは、ここは彼女にとってのオフの場であり、これから表舞台に出る前の楽屋でしかないと、強く示されることになる。同乗者はただの風景となり、彼女の人生にとって、われわれは広告以下の存在であると、きちんと通告される。

もちろん、自分が何者でもないことは知ってはいるのだが、そこまであからさまに示されると、やはり、居心地が悪い。

本来、そのへんは相身互い、何となくぼやかしておきましょうというルールがあったようにおもっていたのだが、そんなの知りませんね、と無視されてしまうと、どうしようもない。

「自分と、初日の出と、その初日の出の写真に〝いいね〟と言ってくれる人たち」以外なにも見えてない撮影者たちと、車内で化粧にいそしむ女子たちは、わたしには同類に見える。その現場ではどちらからも疎外されているように感じる。

それは「コンビニのおでんつんつん動画」や「ユーチューバーなめとったらあかんぞチェーンソー抗議動画」と同じだ。いまそこにいる現場の人の感情は無視して、自分が想定している表舞台での反応だけを考えて行動している。