2017年の初日の出を、東京ディズニーシーで見た。
大晦日からの特別営業で年を越し、朝7時の閉園で出口に向かっているときに、ちょうど日の出の時間になった。
出口に向かうにはふたつのルートがある。海側の通路を通らず、陸側の通路を通ってくださいと、しきりに係員が誘導していた。
見ると、海側には初日の出を見ようと大勢の人が立ち止まって、東のかたを眺めていた。歩くのに困難な人だかりだった。1万人はいないにしても何千人かは立ち止まっていたとおもう。
朝の7時に日が昇ってきた。そのときの光景が異様だった。東を向いた数千人全員が、スマートフォンをかざしたのである。
うーぬ。
全員が、黙って、同時に写真を撮っていた。たぶん、ほぼ、全員だとおもう。
ちょっと怖い。
世界にそんなにも同じ写真が必要なんだろうか。そういう余計なことを考えてしまう。おそらく、必要ない気がする。でも、そんな心配は無用なのだろう。
初日の出をナマの目で見ず、みんな、機械を通して日の出を見ていた、というところも怖かった。
とはいえ、これがおそらくいまの日本のふつうの光景なのだろう。
私には、かなり居心地が悪かった。どうも、インターネットが目に見えて空中を飛び交う社会となって以降、身の置き場所が狭くなったような気がしていて、どうにも困る。
何が不気味だったのかと、考えると、おそらく人数である。
初日の出を写真に撮るのは、まあ、いい。
しかし、なにも全員が全員で撮らなくてもいいんじゃないか。そこが怖いのだ。
かつて、みながカメラを所持する以前の時代は、誰かが代表して写真を撮っていた。全員がカメラを取り出すという恐ろしい風景は存在しなかった。
若者グループだったら、カメラ好きの父を持つ子が一台持ってきていたし、家族だったらお父さんが担当し、カップルならどっちか(彼氏が多いとおもうが、どっちでもいい)、それぞれ代表者一名がカメラを持っていて、その人が代表してシャッターを切っていた。
それがいまではバラバラである。家族がいても全員それぞれ一人づつ、恋人同士でも男も女もそれぞれ、熟年夫婦でも若年夫婦でも、夫と妻がそれぞれカメラを構えている。こんな日本に誰がした。たぶん、みんなで、したんですね。
でも、私には少し異様な光景に見える。一人ひとりが別々のソサエティを持っていて、それぞれのすりあわせがない、というのは、あまり幸せそうには見えない。
自分の目で見てないというのは、現在の体験を優先していない、ということになる。
いまの体験を優先しないで、写真に撮って未来のために保存する、という行為そのものは、しかし、むかしからあった。おそらく写真機が発明された19世紀からあったはずだ。写真機の使命は、現在を保存して未来に届けることにある。まことに19世紀的な発明である。
だから現在をないがしろにされるのは、べつだん慣れている。
しかしそれを全個人がやる、というのは最近の流行である。