これまで日本人を最も飢えから救った食べ物!? そのスゴさを見直す

さつまいもの胸焼けとぬくもり
藤原 辰史 プロフィール

わたしはもたげる不安を抑え込むかのように予習に打ち込んだのだが、そのなかで印象に残ったのは『食べごしらえ おままごと』(1994年)だった。

実はここに「からいも」の話がたくさん登場する。からいもとは、九州南部のさつまいもの呼称である。

とくに「から藷を抱く」というエッセイは印象深い。

「もうな、並の人生の20倍くらい、食いこんでおいたで、まだ胸やけが残っとる」なんていう南九州の農村地帯の中年男の言葉から石牟礼さんは話を始める。

東京のスラムで60日間焼き芋を食べた人を思い出してしまう。

対談のなかでも、石牟礼さんは、「四六時中、茹でてありますから。おなかがすけば、からいも籠というのがどの家にもあって、子どもの手の届かないところに置いておくんですけど」、子どものときに食べたくて「天秤棒でつつき落とした」とおっしゃっていた。

なぜなら、お母様は天秤棒さえあれば、わざと届くところに置いていたからである。また、「からいもは、水俣が一番おいしかった」とも胸を張っておられた。

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からいもに再会

なぜこんなお話になったかといえば、「から藷を抱く」で、石牟礼さんが東京で「からいも」に再会する場面が描かれているからである。

水俣の患者さんたちに付き添って、丸の内のオフィス街の路上で座り込みをしたとき、「津田塾、アテネ・フランセの才媛たち」も一緒に参加していた。彼女たちが焼き芋を買って石牟礼さんにわたす光景が沁みる。

「道子さんにも、はい!」
突然、やきから藷に再会したのだった。彼女らはそれを「おさつ」というのであった。「お」がつく分だけ、藷は美女たちの胸で位が上がったようにみえた。それはなんとも情けない藷の味だったけれども、路上の冷えが骨にしみ透る夕刻、熱いおさつは懐炉のようでもあり、彼女らの愛らしさとやさしさが身にしみ、彼女を生み育てて下さった母君さま方にわたしは感謝した。

石牟礼さんは、「水俣のわが家から藷を食べさせてあげたいと思った」と記し、そのあとつぎのような定言に至る。

「彼女たちはケーキを抱いたりはしない。から藷を抱くのである」。食べものとは食べられるだけでなく、見られたり、嗅がれたり、聞かれたり、なかなか忙しいものだが、実は、抱かれもする。そんな真実を石牟礼さんは教えてくれた。

「から藷」から「おさつ」へのこの変身譚を、わたしは石牟礼さんにおねだりした。石牟礼さんの口からくりひろげられる「から藷」の話で、対談の場にもあの匂いとぬくもりが漂ってきた。

これほどさつまいもに感謝したことはない。

さつまいものおかげで

さつまいもは、肥えていない土地でも育つので救荒作物として江戸時代の日本にもたらされた。

 

宮本常一は、日本史のなかで稲に比してさつまいもがあまりにもぞんざいに扱われていることを、つまり歴史家が民衆に向き合っていないことを、『甘藷の歴史』(1962年)のなかで批判しているが、そのなかにも記してあるように、享保の大飢饉や天明の大飢饉のなかで、さつまいもの栽培面積は増えていき、多くの命を救っていく。

だが、近代以降もまた、さつまいもは、戦争中の祖父や祖母たちの空腹を満たしただけでなく、稲が育ちにくい地域や都市の底辺社会を支え、無数の人々にあの「胸焼け」をもたらしたことは宮本の本のなかではあまり触れられていないし、そもそも広く知られていないだろう。

とともに、わざと取りやすいように「から藷籠」を低いところに置いておいた石牟礼さんのお母様と「みっちん」とのあいだに、そして、丸の内に座り込みをする女子学生と大人になった「みっちん」、すなわち石牟礼さんとのあいだに「ぬくもり」をもたらし、また、時を経て、小豆島の福田の方々、そして、石牟礼さんとわたしとのあいだにも、それを与えてくれた。

からいも、おさつ、さつまいも――時が移っても、場所が変わっても、人は、ケーキではなく、さつまいもを抱く。いや、それだけではない。人は、さつまいもに抱かれてもきたのである。