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海老蔵が静かに進める歌舞伎界「再編」〜歴史の目撃者になるチャンス

これは現代の貴種流離譚だ!
中川 右介 プロフィール

一方、今月の右團次襲名の口上で海老蔵は「9年前、自分の結婚披露宴の折に右團次を復活しようという話を、右近さんと父の團十郎と話したことがあり、それがようやく今日、こうした形で叶い、このように嬉しいことはありません」と述べている。

海老蔵が結婚したのは2010年なので「9年前」ではないが、右團次によると、9年前の2008年に海老蔵から右團次を襲名してはどうかと言われていたという(https://www.daily.co.jp/gossip/2017/01/12/0009824396.shtml)。

2008年に海老蔵と右近の間でこの話が出て、それを海老蔵が父・團十郎と相談し、内定したのが10年の結婚披露宴の場だったのだろうか。

猿之助と中車の襲名は12年なので、逆算すれば、10年時点では、水面下での話がかなり進んでいたはずだ。

いったんは一門を出た亀治郎が猿之助になり、香川照之という「外にいた息子」が参入するとなると、それまでナンバー2のポジションにいた右近が微妙な立場になるのは誰の眼にもわかる。

猿之助一門と親しくなっていた海老蔵としては、市川宗家の立場からも、右近をどう処遇するか考えていたのである。さらにはもっと大きなスケールで、歌舞伎界全体の将来を考えているとも言える。

そこで、右近に大きな名跡を与えることで、劇界でのポジションを強くさせた。

祖父11代目團十郎は、政治センスには欠けるところがあり、悲劇を招いたが(拙著『十一代目團十郎と六代目歌右衛門』、幻冬舎新書参照)、海老蔵は、なかなか政治センスがある。

右近がふっきれたのは、猿之助にはならないと決まったのと同時に、右團次襲名という具体的な目標が出来たからでもあったのだろう。

 

右團次の復活の意味

さて、その「市川右團次」だが、ほとんどの人が初めて眼にする名だろう。

先代(2代目)右團次が亡くなったのが、戦前の1936年。以後、この名の役者はいなかったので、81年ぶりの復活なのだ。先代右團次を知っている人は、もはやほとんどいない。

右團次のルーツをたどると、幕末に活躍した名優・四代目市川小團次に到達する。

小團次は7代目團十郎の門弟で、その子が明治の名優のひとり、初代左團次(養子)と初代右團次(実子)だった。他に5代目小團次もいた。

市川左團次の名跡は以後も途絶えることなく、当代左團次は4代目だが、血統は2代目で終わっている。5代目市川門之助の長男が、いろいろな経緯で3代目左團次となり、その子が当代の左團次だ。

一方、右團次は初代の子が2代目として継いだ。2人とも関西が活躍の場で、早替りなどを得意とするケレン味のある芸風が売り物だったという。

だが2代目の子は役者を廃業したので3代目にはならず、途切れてしまった。そして、その子が当代(3代目)の右之助となった。右之助は初代右團次のひ孫にあたるし、4代目小團次からみれば玄孫(やしゃご)である。

右之助は女形の老け役なので、一般的知名度は低いが、成田屋一門に欠かせない名脇役で、5代続いている名門でもあった。しかし女形ということで右團次にはならずに今日まできた。

海老蔵は、「右近」と「右團次」は「右」が共通するし、右近は関西出身だし、師・猿之助の芸風が右團次に共通すると気付き、この襲名を思いついたようだ。

名は途絶えていたが、2代目右團次の孫にあたる右之助が健在ななかでの名跡の譲渡である。当然、右之助の承諾も必要だったはずだが、それも円満にいったようで、今月の襲名の口上には右之助も列座して挨拶した。

昨今は、ほとんどが実の父子間で名跡が世襲されるが、昔は必ずしも血統にはこだわらずに襲名されていた。門閥主義が定着するのは戦後のことと言っていい。

そのなかで、門閥外の右近が、右團次という大名跡を襲名できたのは、偶然にもよるが、非世襲の襲名として画期的である。

もっとも、その新しい右團次の子が、同時に右近を2代目として襲名したので、これはこれで新しい門閥がひとつできたことにもなる。