【ゼロからわかる】イギリス国民はなぜ「EU離脱」を決めたのか

露わになるグローバル化の「歪み」
笠原 敏彦 プロフィール

キャンペーンでは何が争われたか

国民投票のキャンペーンでは、キャメロン首相率いる残留派は主にEUの共通市場を失うことによる「経済的な損失」の深刻さを訴えた。

それに対し、ジョンソン市長やマイケル・ゴーブ司法相(当時)らが率いる離脱派は主に「移民問題の悪影響」を強調、主権とEUへの拠出金(約85億ポンド)を取り戻すとアピールした。

残留派を支援するIMFや経済協力開発機構(OECD)などはマクロ経済的試算に基づく「巨大な損失」を次々に公表した。

「英国の2020年のGDPは3.3%減少する」(OECD)「離脱すれば各家庭は毎年4300ポンドの損失を被り、2年で50万人が職を失う」(英財務省)「離脱は欧州と世界の経済に深刻なダメージを与える」(IMF)といった具合だ。

しかし、エスタブリシュメント(支配層)側から出されるこうした警告は一部で「脅し戦略」と受け止められ、逆効果となったようだ。

保守系デーリー・テレグラフ紙に載った有権者の次の声がその国民感情の一部を代弁している。

「離脱がそれほど重大な結果を生むなら、キャメロン首相はそもそもなぜ国民投票をするのか」「有権者はバカではない。離脱に伴うリスクは理解している。しかし、我々は脅されて残留に投票したりはしない」

一方で、移民問題にフォーカスした離脱派のキャンペーンには、欧州難民危機やイスラム系移民の2、3世の若者によるパリやブリュセルでの大規模テロが追い風になる。

 

焦点となった移民問題

ここで少々説明が必要なのは、英国にとっての移民問題とは、シリアなどからの難民危機とは別次元の問題だということだ。

反EU派が問題視しているのは、EUが2000年代に入って東欧諸国へ拡大したことに伴って急増したEU域内からの「欧州移民」である。

これは、域内自由移動の原則に基づき、より良い労働、生活環境を求める「労働移民」と捉えればよりイメージし易いだろう。ポーランドやルーマニアなどEU域内からの英国へのこうした移民は、2004年~2015年までの11年間で100万人から300万人へと3倍に増えている。

背景には、英国が移民に対してあまりに寛容であったという逆説的な事情がある。

EUが2004年に東欧など10ヵ国を新規加盟させた際、加盟国は新規加盟国からの移民に対し7年間の就労制限を認められた。ほとんどの加盟国がこの権利を行使する中、当時のブレア英労働党政権は東欧からの移民に門戸を開放する政策を取ったのである。

キャメロン首相は2010年の政権発足時に移民の規模を「年間数万人」に押さえると約束したが、昨年の英国(人口6400万人)の純移民増は36万人にも及ぶ。うち、EU域内からの移民は18万4000人。その規模は、大学都市として知られる英南部オックスフォードを優に超えるものである。

社会保障や教育面などで自国民と同等に扱わなければならい人口が1年間でこれだけ増えることのインパクトは想像に難くないだろう。そして、欧州移民と雇用や公共住宅の確保などで競合する労働者、低所得者層を中心に、英国では反EU感情が急速に高まってきたのである。

EU離脱派の国民にとって、欧州移民の急増は「国境管理」という主権をEUに移譲したことに伴う「国家の無力さ」「将来への不安」を身近に感じさせるものと映った。

この国民の不安を煽る離脱派のキャンペーンに対し、キャメロン首相は、EU加盟を継続しながら移民問題にどう対処するのか具体的な対策を示すことができなかった。

英国と大陸欧州の心理的な溝の深さ

とは言っても、移民問題は反EU感情を引き起こしている現象面のエピソードに過ぎない。英国の大陸欧州との関係を考える際、見逃せないのは、両者を分断する心理的なフォルトライン(分断線)の深さである。

やや誇張すれば、英国人にとって大陸欧州とは歴史的に悪いニュースがやってくる震源であり続けてきた。20世紀を振り返るだけでも、二つの世界大戦、全体主義、共産主義という巨大な脅威にさらされてきた。

必然的に、英国と大陸欧州諸国では欧州統合に向き合う姿勢も大きく異なっている。

欧州統合プロジェクトは本来、二度と戦争を繰り返さないという不戦の理念から生まれた政治的なものである。その根幹にあるのは「主権国家は諸問題の解決に失敗した」という反省である。

一方で、英国にとって二つの大戦は売られた戦争であり、「正しい戦争」に勝利して欧州を救ったというプライドはあっても、負い目はない。

1973年にECに途中参加した英国にとって、統合は経済的なメリットを得るためのプロジェクトでしかない。だから、英国は、欧州統合の二大偉業とされる単一通貨ユーロにも、国境審査を廃止するシェンゲン協定にも参加せず、「特別な地位」を享受してきたのである。