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2016年夏、ブラジル・リオデジャネイロで行われた世界最高峰のスポーツの祭典での日本選手団の活躍に胸を熱くした人も多かったことだろう。続いて行われた障がい者スポーツ競技大会も、4年前の大会に比べてテレビ放送時間が大幅に増えるなど注目が集まり、障がい者スポーツの存在と、各選手たちの努力などが広く世に知れ渡ることとなった。
その中でもひときわ異彩を放っていたのが、車いす卓球世界ランキング7位(当時)の日本女王、別所キミヱ選手。編み込んだ茶髪に、トレードマークの蝶々の髪飾りが舞う。「バタフライ・マダム」の異名を持つ日本代表選手最高年齢の69歳だ。
「日本に帰って来てから、どこに行っても声を掛けられるようになって、ほんま、えらいことになりました(笑)。これまで普通にやってきたことが急に注目を浴びて、自分自身驚いています。『元気をもらった、ありがとう!』なんて言われても、不思議な感じですね。
障がい者スポーツというと暗いイメージがあったと思うのですが、変わってきました。特に、子どもたちに障がい者スポーツで頑張ってるということを感じてもらっているのは嬉しいですよ」
日本代表のユニフォームを着て車いすに乗っていなければ、まさに「関西のおばちゃん」そのもの。しかし、40代になってから難病にかかり、手術中に二度も心臓が止まったという壮絶な経験の持ち主でもある。
「結局、下半身に麻痺が残り、リハビリのために45歳から車いす卓球を始めました。最初は卓球以外にマラソンやアームレスリングもやったんですけど、海外の大会で卓球のワールドカップ優勝経験者を破ったことから、のめり込んでいきました。卓球を続けるために、もう家を買えるくらいお金を使ってますよ(笑)。
講演したり、自分で作った缶バッチやシールを販売したりして資金を捻出してますが、ずっと手弁当でやってます。ネイルも付けまつ毛も100円ショップですよ。
今は卓球でも用具や遠征費用を援助やサポートしてもらっている選手が少しずつ出てきて、いい状況になりつつあるかなとは思いますけどね。昔はほんま全部自費やったから」
障がい者スポーツの場合、たとえ日本一の選手であっても、資金面や環境は恵まれているとは言いがたいのが実情だ。
長年、障がい者スポーツの現場を見てきた公益社団法人東京都障害者スポーツ協会スポーツ振興部の近藤和夫さんは、近年の障がい者スポーツの盛り上がりを実感しつつも、まだ課題は多いと考えている。
「障がい者アスリートを成田空港などに送り迎えする時に、ごく普通の親子連れなどが『パラリンピック選手だ』と言ってくれるようになり、パラリンピックが多くの方に認知されるようになってきています。
ただ、関心を持ってもらっているのはまだ一部の競技スポーツだけ。競技とは関係なく、障がいを持っている人たちが普通にスポーツのできる環境というのは、まだまだ整備されていないのが現実です」
日本では障がいのある人を対象としたスポーツ事業(〇〇教室等)を行っているところがまだ少ない。公共施設や交通機関のバリアフリー化は進んできているが、障がいのない人と同じように気軽にスポーツや文化活動を楽しめるまでには至っていないと感じる。
「特に東京のインフラの整備はまだまだで、車いすで移動するのが大変。正直、不便やなって思ってます。2020年には外国から障がい者の選手が来るのに、どうするんやろ。東京駅にタクシーで乗り付けても平らなところがなく、誰かの手を借りなければ車いすでは改札にまでたどり着けないんですよ」(別所選手)
そう聞くと、「まずは早急にインフラの整備を!」と単純に考えがちだが、それよりも「もっと簡単な方法がある」と、近藤さんは指摘する。