# 近代史

日本からクリスマスが消えた年〜「抹殺せよ、アメリカ臭」

真珠湾攻撃、そして敗戦へ
堀井 憲一郎 プロフィール

アメリカを敗戦国扱い

1942年は、日本国内のクリスマスについての言及はなく、海外ネタばかりである。

1942年12月21日「敗戦二題/支那人使ってウソの米映画 国民も信ぜぬ「ウエーキ島」死闘/嘆きのXマス くさる在支空軍将校」

アメリカを敗戦国扱いしている。在支米軍がクリスマス資材が少なくて嘆いている、との報道である。

1942年12月22日「これが敗戦米国民の消費生活 統制蹴飛す買漁り 政府も悲鳴あげるXマス気分」

ニューヨークではクリスマス気分にあふれ、あり余る金と贅沢をほしいままにし戦争気分は失われたかの観がある、との報告で、だから敗戦国民アメリカ人にあきれているかのような記述になっている。しかし、戦争中にかかわらずクリスマス気分が横溢としてるのは、余裕のあらわれのように、いまとなっては見える。

1942年12月24日「型だけの紳士淑女 呆れ果てたロンドンのXマス」

イギリスは空襲に苦しんでいるが、その生活様式を変えようとしていない、というのを揶揄して記事にしている。

どうも、敵国を揶揄しようとして、クリスマスを扱っているようだけれど、ただ奇妙な屈折しか見受けられない。読んでいても、その屈折心をストレートに感じて、心重くなってしまう。

1943年になると、皇国日本にも余裕がなくなる。

1943年12月27日に、ドイツのクリスマスのレポートがある。戦況で苦しい状態にあるドイツでは、クリスマスに、ヒットラー総統が少年少女に配給、戦争に勝ってきちんとクリスマスを迎えたい、との記事である。日本の苦しさを投影した記事ですね。

1944年。ほぼ壊滅的な状況にあった日本の新聞で(当時はもう1枚2ページだけです)クリスマスの文字が入っていた記事がひとつだけあった。

1944年12月26日「小癪なXマスの贈物」

「二十五日午前三時半ごろ、B29一機は茨城県南の一部を焼夷弾で盲爆、辺鄙な部落の農家数戸を焼いたが、部落民はかねて訓練の自転車連絡隊で、暗黒をぬって勇敢に活動したため、類焼など一軒もなく、直ちに消火、死傷者もなく損害は極めて軽微だった。

ところが落下した焼夷弾筒の尾部に白ペンキでメリイ・クリスマス・トウケウ・プレゼントと小癪な文字が記されているのを、発見した。村民達はまるで牛蒡掘りだと焼夷筒を堀出し、東京と間違えて野原へプレゼントした憎むべきルーズヴェルトの贈物に、敵愾心を沸らせた。焼夷筒には一々生産年月日が記されているが、いづれも十月乃至十一月のものであつた」

大変な状態であるが、なんとなく田舎ののんきな空気が感じられる記事でもある。

これが戦争中のクリスマス記事である。

終戦直後のクリスマス

明けて1945年。8月に敗戦が決まり、4ヵ月後の日本のクリスマス。

 

さすがにまだ終戦直後とあって、さほど華やかなクリスマスイベントは開かれていない。

1945年12月22日「サンタクロースも飛行機で 仮装ジープ・バンドで大行進」

「飛行機で宮城前広場に降り立った飛行機は、進駐軍将兵の子供達へのプレゼントを持ってくる。サンタクロースは、白馬の引く馬車に乗り、また仮装ジープと宮城前を二周し、バンカーズ・クラブのクリスマス会場へと練り行く」

そういう記事である。進駐軍が、進駐軍の子供に向けてプレゼントを運んだ、という記事である。日本人のためのクリスマスは、まだきちんと起動していないようである。

1945年12月24日のラヂオ欄に「クリスマスに因んで 歌詞の朗読 物語」や「クリスマス子供音楽会」というのがあり、翌日には「クリスマス子供と家庭の夕」が復活している。

まだまだクリスマスを迎える余裕はなかったようだ。

日本のクリスマスは、この翌年1946年から復活しはじめ、1947年には、もう戦前の盛んだったクリスマス騒ぎが戻ってくる。

(つづく)