シベリア抑留「4万人死亡名簿」をたった独り調べ続けた日本人がいた

一日10時間を10年間、休むこともなく
栗原 俊雄 プロフィール

一日10時間、10年間、休むことなく

5年後の1996年、誕生日の2月3日に一念発起した。70歳でパソコンを始めた。抑留経験者の資料や、厚生省(当時)所有の名簿など漢字表記のある資料を収集し、カタカナ表記と突き合わせた。
 
たとえば前記の「ソミタニイ」はソメタニ・イサム=染谷勇。コ(カ)ウニヤ・シュラオ」は幸田操、「ホタノ・テレネダ」は浜野照太郎。犠牲者たちの名前を再生させていった。さらに軍隊での階級や収容地、亡くなった日時、埋葬地なども可能な限り名簿に加え、異郷で無念の最期を迎えた犠牲者の人格を再生させようとした。
 
その再生作業は10年間、1日10時間以上作業した。「休んだら挫折する」と、2日以上連続で休んだことはなかった。2005年に、成果をホームページで公開し、2年後には「シベリアに逝きし人々を刻す」を自費出版した。4万6300人、うち3万2324人の名前を漢字で記した。厚さ約5センチ、重さ2キロの大著である。白い紙面に黒い印字で、累々と死者の名前が並ぶ。

紙上の墓標。「6万人」という統計上の死者数ではなく、だれかの父であり、夫であり、息子であった確かな個人が死んだことが実感として伝わってくる。遺族にとって故人をしのぶ貴重なよすがであり、抑留研究の金字塔である。 

 

「村山名簿」が公開された後、遺族らからの問い合わせが相次いだ。自分の肉親がどこで、なぜ死んだのか知らない人が、そして戦後60年たってもそのことを知ろうとしている人たちが、たくさんいたのだ。村山さんはその問い合わせに、丁寧にこたえた。村山さんを支えた妻のカズさんが当時の様子を語ってくれた。

「ご遺族からお問い合わせがあると、何をしていても書斎に駆け込んで、お伝えしていました。『調べてあげたら、確かにあったんだよ』と話す時、目は真っ赤でした」
 
村山さんの功績は、こうした記録を掘り起こしたことだけに止まらない。村山さんは職を退いても教師だった。多大な時間とお金を費やして切り開いた研究の成果を、第三者におしげもなく提供した。

70歳を過ぎて、死んでいった仲間や遺族のために前人未踏の苦行を続ける姿をみて、多くの研究者や新聞、テレビの記者がエネルギーをもらった。それは「自分も何かやらなければ」という気持ちだ。村山さんのもと、異なる社の記者が会社の壁を越えて協力することもあった。私は「村山大学」と呼び、教え子の一人を自認していた。
 
村山さんは2014年5月11日、88歳で亡くなった。しかしその志は、多くの教え子に引き継がれている。筆者はその一人だ。

政府はどこまで本気なのか

さて、先にみたシベリア特措法によって、政府は抑留の実態解明や遺骨の帰還を促進することが求められている。しかし、いずれもゴールへの道は細く長い。たとえば遺骨の収容、帰還だ。いまだ3万体以上の遺骨が眠ったままである。他の地域の遺骨と同様、集めて終わりではない。それを待つ人に届けてこそ、国としての責任は果たされる。

しかし今年10月、「どこまで本気なのか」と不安を生じさせる事故があった。ハバロフスク地方で遺骨収容中、DNA鑑定の検体(歯)61人分を、焼却してしまったのだ。
 
DNA遺骨は遺骨の身元を特定する上で有効だ。シベリア抑留では1000人以上の身元が分かった。しかし、現在の技術では、焼いた骨や歯からDNAを抽出することはできない。厚生労働省の説明によれば、ロシア人の作業員が誤って、暖を取るためにたき火で燃やしてしまったとみられる。