日米開戦「自衛のためにはやむなし」という認識はなぜ生まれたのか?

「自存自衛」の起源
森山 優 プロフィール

「自存自衛」の意味・内容

まず、「自存」について考えてみよう。

現在の日本の高校教科書でも、「ABCD包囲陣」という当時の日本政府の宣伝文句を使用したり、石油の対日全面禁輸を採り上げて説明されている。英米が経済圧迫を加えたから、日本はやむをえず戦争に訴えた、という論理構成となりやすい。日米戦争をアメリカに強いられた戦争ととらえる、一部のナショナリストの「聖戦論」とも通じている。

しかし、戦略物資を売ってくれないから戦争に訴えるという論理は、内向きかつ独りよがりである。しかも、そのことに、ときの東条英機首相も自覚的だった。彼自身、「物盗り」の戦争では大義名分が立たないと考えていたのである。

じつは、開戦がほぼ決まってから、あわてて戦争の大義名分が議論されはじめたのである。

それでは「自衛」はどうであろうか。

英米の軍備増強は急ピッチで進められており、時間の経過によって勝機を逸するという認識は、陸海軍ともに共通していた。

しかし、1941年7月、アメリカの在米日本資産凍結直後に勃興した武力「南進」論に対して、海軍次官の沢本頼雄は以下のような疑問を呈している。

 

もし対米戦に踏み切れば、資産凍結の直前に日本が実施した南部仏印進駐が原因となったことになり、日本が「正義の上より悪しき立場に立つ」(『沢本頼雄日記』防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵)と。

つまり、英米の一方的な圧迫ではなく、相互挑発の最初の引き金を引いたのは日本側だと認識していたことになる。

沢本は海軍次官として、その後も戦争回避の立場をとりつづけた。彼は、アメリカの先制攻撃を憂慮して開戦に踏み切ろうとする嶋田繁太郎海軍大臣に対して、アメリカは歴史的にも国情からも自ら攻めかかる国ではない、と説得をつづけたのである。

このような冷静な判断を斥け、日本は戦争へ向かった。そして、戦争に勝つためには被占領地の協力が不可欠となった。

そのために掲げられたのがアジアの解放・大東亜共栄圏という看板である。しかし、掲げられた以上、拘束力を持つのは当然である。

そして、そもそも自存自衛と大東亜共栄圏のあいだには大きな隔たりがあった。功利的に考えれば、戦争目的を自存自衛にとどめておいた方が米英との講和も容易であり(資源さえ入手できれば戦争の原因が消滅するので、講和となったらそのまま返せばよい)、敵の植民地の解放まで進むと後戻り不能となる。

結局、日本の戦争目的は両者のあいだを揺れ動きつづけ、敗色が濃くなった段階でも先述のように統一されることはなかった。

言葉をかえれば、日本は異なる二つの戦争を戦ったのである。

ただでさえ国力に大きな隔たりがある米英(1941年の鋼鉄生産量は、アメリカは日本の11倍弱、イギリスは1・8倍)と戦うのに、力が分散しては勝利はおぼつかない。敗戦は自明であった。

結局、戦前から予想されていたように大東亜共栄圏は共貧圏となり、日本は自存どころか自衛もできない状況に追い込まれた。

日本が1945(昭和20)年8月にポツダム宣言を受諾した際、抗戦派が最後までこだわったのは「国体護持」つまり天皇を中心とした体制を守る、この一点であり、それすらおぼつかない状態で連合国に国家を委ねざるをえない羽目に陥ったのである。

しかし、もちろん日本の指導者が、そのような結果を最初から予測して行動していたわけではない。

それでは、日米間に危機を招来した南部仏印進駐は、いったいどのような過程を経て選択されたのだろうか。

(続きは本書でお楽しみください!)