そもそも日本は何のためにアメリカと戦争したのだろう?

「目的」は終始混迷していた
森山 優 プロフィール

政治学者で国連次席大使の経験もある北岡伸一は、「太平洋戦争の「争点」と「目的」」(細谷千博ほか編『太平洋戦争』東京大学出版会、1993。のち北岡『門戸開放政策と日本』東京大学出版会、2015)で、日米間には戦争に訴えてまで解決しなければならなかった争点が存在しなかったことを指摘している。

北岡によれば、日本が主張した東亜新秩序に対するアメリカの批判はイデオロギー的で、アメリカの現実的利害は小さかった。日本市場に比較して、中国市場が占める比重は格段に小さく、いわば想像上の利害(中国統一後は有力な市場となりうる)に過ぎなかった。

にもかかわらず、アメリカは日本の行動を門戸開放原則に対する重大な挑戦と受け取ったのである。また、日本側にとってもアメリカの主張は自らの生存圏を脅かすものと認識された。

これが日中間や日英間であれば、満蒙権益や中国市場という具体的な争点が存在するため、非常にわかりやすい。

しかし、日米間の対立は原則に関する対立であった。そのため、いったん両国関係が危機に陥った際、具体的な取引による解決が困難だったのである。日米戦争は、まさにイデオロギー戦争だった。

 

戦争の直接的動機─南部仏印進駐

もちろん、日米間の原則的な妥協が困難でも、直接的な動機がなければ、戦争にはならない。具体的な懸案の解決策が原則問題に抵触し、硬直的な対応しか採れなくなったときに、はじめて戦争の危機が生じる。

その発端となったのは、1941(昭和16)年7月末の日本の南部仏印進駐と、それにつづく8月のアメリカ、イギリス、オランダによる対日全面禁輸であった。

日本は現在も当時も、その領土内から産出される資源に乏しい。特に石油は、需要のほとんどを米英圏からの輸入に頼っていた。当時の試算では、備蓄は平時需要の2年分、戦時だと1年半分であった。

備蓄が尽きた時点で英米が強硬な要求を突きつけてきても、それを呑むしかない。それならば、戦える力が残っているうちに、オランダ領東インド(蘭印)の資源地帯(当時、第一の産油地帯は蘭印であった。またゴム・ボーキサイトなどの戦略物資も豊富に産出していた)を武力を行使してでも確保すべきである、という議論が陸海軍に起こった。いわゆる「ジリ貧論」である。

もちろん、全面禁輸を解除すべく必死の対米交渉がつづけられ、中近東からの輸入や人造石油(石炭液化)なども検討された。しかし、アメリカはその原則を譲らず、日本もアメリカの要求に屈して中国からの撤兵を呑むことはしなかった。

つまり、日本が戦争に踏み切った直接的な動機は、平和的手段では入手困難となった戦略物資の獲得であった。少なくとも当時の指導者層の自己認識としては、「自存自衛」のためにやむを得ない戦争だったのである。

このことを明確に打ち出したのが、1941年12月8日、開戦と同時に発表された「宣戦の詔書」である。

ここで天皇は、日本に対して抗戦をつづける蒋介石の中国を支援する英米が、軍事的・経済的な圧迫を日本に加えたことで国の存立が危うくなったため、「自存自衛」のためにやむなく戦争に訴えたと述べている。

この詔書は、国民に対して戦争目的を明示する意味で、延々とくりかえし喧伝された。戦争中、毎月8日は「大詔奉戴日」とされ、国民学校(1941〜46年度の6年間、小学校は国民学校とされた)では校長が詔書を恭しく朗読したという。

国はさまざまな手段を使って、国民に対して戦争目的をわかりやすく浸透させようとした。

その目的で製作された大政翼賛会宣伝部による『敵だ!倒すぞ米英を』と題する紙芝居をみてみよう。

戦後も活躍した人気漫画家近藤日出造の画になるこの紙芝居は、戦争原因を米英のアジア搾取(図1)とABCD包囲陣(図2)に求め、アメリカが最後通牒を突きつけてきたため、日本はやむなく立ち上がった(図3)と説いている(神奈川大学非文字資料研究センター所蔵)。

図1 米英のアジア搾取
図2 ABCD包囲陣
図3 たちあがる日本

「支那事変」の不可解さに比較すれば、戦争目的の明快さは際立っていた。しかも、「弱い支那」をいじめるのではなく、世界の大国にいじめられた日本が立ち向かうという主張である。

先行きの不安はさておき、当時の国民が抱いたある種の爽快さは、それなりに筋が通っていた。国民にとって、この戦争目的はわかりやすく、そのために浸透することができたのである。

それではこの「自存自衛」という認識は、いったいいつつくられたのだろうか。そして、これが脅かされれば戦争に訴える理由になり得ると、開戦を決意した政府や軍の当事者たちは本気で考えていたのだろうか。

(続きは明日公開)