そもそも日本は何のためにアメリカと戦争したのだろう?

「目的」は終始混迷していた
森山 優 プロフィール

目的なき戦争

一般に、日米戦争は、アメリカによる東アジアにおける門戸開放・機会均等原則の主張と、それに挑戦する日本の「東亜新秩序」との激突である、と理解されている。

しかし、日米がその理想を自国民のおびただしい血を流してまでも現実のものとしなければならないと考えていたわけではない。

アメリカの理想が実現している地域は、中南米をのぞけば、世界のどこにも存在しなかった。このため、日本側は日米交渉の過程で、アメリカの主張に主義上の賛意は表明したが、東アジアへの適用は世界中で実現した場合に限るという論理で、実質的には拒否したのである。

そして、「東亜新秩序」という日本の主張は、泥沼化した日中戦争を解決するため、苦し紛れにひねり出された構想だった。

1938(昭和13)年11月3日、近衛文麿首相は当時戦われていた日中戦争の目的を、「東亜新秩序」の建設にあるとする声明を発した(第二次近衛声明)。じつは、日中戦争も「目的」を失った戦争だったのである。まず、開戦直前の状況を概観してみよう。

 

1937(昭和12)年7月にはじまった「支那事変」当初は、中国に対する憎悪だけで国民を動員することができた。日本製品に対する排日不買運動、在留邦人へのテロ・虐殺など、敵愾心を煽る材料には事欠かなかったからである。

しかし、一時期の感情だけで長期戦を戦うのは無理である。

同年12月、首都南京が陥落しても、蒋介石は漢口さらに奥地の重慶に立てこもって抗戦をつづけた。日本は大きな損害を出したにもかかわらず、蒋と中国ナショナリズムを武力で屈服させることはできなかった。

南京陥落の翌月、1938年1月16日には、日本は「国民政府を対手(あいて)とせず」という声明(第一次近衛声明)を出して蒋介石政府を否認し、占領地に傀儡政権を樹立して、統治にあたらせようとした。しかし、傀儡政権には統治能力がなく、治安の維持さえおぼつかなかった。

このような事態を打開するために発されたのが、先述の第二次近衛声明とそれにつぐ12月の第三次近衛声明(近衛三原則、すなわち善隣友好、共同防共、経済提携に基づく「東亜新秩序」建設を謳った)だったのである。

これに呼応して、中国国民党のナンバー2だった汪兆銘のグループが重慶を離脱、日本との和平交渉を開始する。

ところが、日本は公式には非併合・無賠償と言いながら、汪兆銘との条約交渉では露骨な権益獲得を秘密協定で要求した。日本の要求を受け入れれば漢奸(裏切り者)となるのは避けられない。汪兆銘グループは分裂し、汪の側近だった高宗武らは香港に脱出する。

彼らは1940(昭和15)年1月22日、日本が出した条件を世界に暴露した。残された汪兆銘は自ら国民政府を名乗るが、日本の傀儡政権とみなされる運命となった。

日本政府は汪の統治能力の限界を悟ると、ふたたび重慶との直接交渉に乗り出し(桐工作)、汪政府の承認をひきのばしにかかった。最終的に汪政府との条約が締結されたのは、1940年の11月30日であった。汪の重慶脱出から、すでに2年が経過していた。

汪政府を国家として承認することは、蒋介石との和平が不可能になることを意味した。調印のために南京に向かった元首相の阿部信行大使の使節団一行を送るパーティーは、さながらお通夜のようだったという。

中国と戦いながら、中国を味方としなければいけない。この矛盾を鋭く衝いたのが、民政党の代議士斎藤隆夫による1940年2月2日の、世に言う「反軍演説」だった。

陸軍が桐工作に乗り出す直前の第七五帝国議会で展開された斎藤の演説は、論旨明快だった。彼にとって国際社会は弱肉強食の世界であり、戦争では勝ったほうが負けたほうから獲物を分捕って当然であった。しかし、政府は「支那事変」を「聖戦」と称し、領土も賠償金も要求しないと主張している。はたして何のために日本は戦っているのか、というのである(有馬学「戦争のパラダイム─斎藤隆夫のいわゆる「反軍」演説の意味」『比較社会文化』1、1995)。

政府のもっとも痛いところを衝いた斎藤の主張は、一般庶民の感覚に近かっただろう。まさに目的もなく、出口も見えない泥沼の大戦争になってしまったのが「支那事変」だった。

イデオロギー戦争としての日米戦争

「東亜」が「大東亜」に、「新秩序」が「共栄圏」と名前を変えても、それが何を意味するか、日本人のあいだですら共通の了解はなかった。

このような理解不可能なもののために国運を賭ける国家が存在するだろうか。