ブロックチェーンは「私たちの未来」をどう変えるか?

新技術の可能性について結論を急ぐな
池田 純一 プロフィール

やわらかく受けとめる

ところで、なぜこのようなことを書いているかというと、どうもこのブロックチェーンのような動きの激しい世界では、それについて記されたものに対しては読み方の態度も変えなければいけないように思えるからだ。

完成された体系が説明されているわけではなく、そこら中に新たな可能性を喚起するような解釈・発想の種が埋め込まれている。そして、その種を見出すかどうかは、一種「頭の体操」のような読み方が必要になってくる。

あえていえば、そこに必要なのは文学的な解釈を許容する読み方である。あれこれ「想像」する溜めが必要だ。裏返すと技術や法律を学ぶ時のような知識記憶型の読み方をしてもきっとあまり有効ではない。

たぶん、最も抽象度の高いレベルでいえば、ブロックチェーンとは「分散分権型」の、ということは「中央集権型」ではないタイプの相互行為の管理の仕方であるということになり、「分散分権」という言葉を使えばそれで終わってしまう。

しかし、それではあまりに現実性に欠けるため具体的なアプリが紹介されるわけだが、今度は、そのアプリにまで話のレベルが落ちてくる段階で、経済や経営、規制などの具体的な制約条件の個々の詳細/文脈が必要になってくる。

だが厄介なことに、それら個々の検討/議論を知ったからといって、必ずしもすべての可能性を尽くしたような手応えを与えてくれるわけではない。

つまり、「ちゃんと理解できた」という気にさせてはくれない。「これで腑に落ちた」と言い切れるような自信を与えてくれない。常になにかしらの隙間が空いているような感覚を拭えない。

となると、むしろ、まぁ、こんなものもあるよね、というぐらいの感じで、つまり、数多ある楽曲のうちで、うん、この曲はなんかノリが合う、という感じで気にいるような受け入れ方で済ますぐらいがせいぜいなのだろう。

その意味で、ブロックチェーンとはいまだ詩的な存在なのである。

けれどもここで一つ問題になってくるのは、そうだとすると、第三者にその内容の一部だけを伝えることがとても難しくなるということだ。つまり、面白い小説を見つけて人に薦める時、面白いからとにかく読んでみてよ、と言うしかないのに近い。タプスコットやムーゲイヤーの本も、そんな感じで読んでみてよ、という感じなのだ。読み散らすくらいでちょうどよい。

こうした読みの感覚の有無は、欧米圏でブロックチェーンが――たとえばWWWブラウザ開発者のマーク・アンドリーセンが力説するように――インターネットに続く革命だと呼ばれている「ノリ」にどうも日本社会がついていけていない理由のようでもある。

何か大変なことが起こるかもしれない、という予感だけでいささか筆が滑ることも含めて慌てて書き記されたテキスト、そのいい意味での拙速感が、ブロックチェーンの語りの周りには漂っている。

受け止める側も、いい意味で、そのようなものとして話半分で受け止めてやる技量が必要になる。

 

帳簿と人類

とはいえ、では、その可能性についてはどう想像すればよいのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。あるいは、どうしてこのような技術の先に未来の可能性があると期待できるのか、と問い詰めたくなる人もいるかもしれない。

そのような人には『帳簿の世界史』という歴史ノンフィクションを薦めてみたい。

なぜ帳簿かというと、それはブロックチェーンの本質の一つが「分散台帳」にあるからだ。つまり、公開された記録=帳簿だ。