「奴隷のままでは死ねない」シベリア抑留後を闘い続けた男たち

推計6万人死亡の悲劇から60年
栗原 俊雄 プロフィール

一筋の希望の光が見えた

1審は2007年、関西地方在住の人たちが中心となって京都地裁で起こした訴訟である。原告30人。平均年年齢は実に82・8歳である。

記者はこの裁判のほぼすべてを傍聴した。人生の終盤にさしかかっており、病気と闘いながら裁判を続ける人もいた。杖をついて裁判所に通い詰める人もいた。

判決は2009年10月28日(吉川慎一裁判長)。判決文は、「損害は深刻かつ甚大」とし、原告の被害を認定した。しかしながら典型的な受忍論をたてに、補償請求は退けた(拙著『戦後補償裁判』NHK新書、2016)。

ほかの裁判にも言えることだが、裁判所は抑留犠牲者の被害を歴史的事実として認定している。ではどうやって救済するかといえば、それは「その解決は、立法裁量の問題に止まるものであって、政治的決断に待つべきもの」(上記京都地裁判決文)というのが司法判断のスタンダードである。

その政治は、補償実現について長く消極的だった。だからこそ抑留経験者による提訴が相次いだのだ。

しかし敗訴確定が相次ぐなか、抑留経験者は裁判所の勧告を背景に、政治への働きかけを強めた。つまり、立法による課題解決を目指したのだ。エンジンとなったのは全抑協だった。

全抑協は敗訴確定によって運動の方針を見失った。最盛期、会員10万人以上を数えた同会だが、会員もおよそ1000人にまで減った。

運動を建て直したのは、2003年に会長に就任した寺内良雄さんである。シベリア・コムソモリスクに抑留され、1947年9月に帰国した。栃木県議会議員を5期17年務めた寺内は、強いリーダーシップで会をまとめた。しかし2008年10月20日、志半ばにして急逝した。

後を継いだのが平塚さんである。49年10月まで、沿海州で炭鉱労働などに従事した。抑留帰還者に対しては「アカ=ソ連に洗脳された者」という偏見が根強かった。平塚さんは帰国後、なかなか就職できず、新聞配達や生協職員など経て東京都中野区で開いた飲食店で生計を立て、全抑協に参加した。

抑留のため左の肺を失った平塚さんは、つえや車いすを使って国会議員を訪ね、集会に参加した。折しも、野党時代から抑留の補償問題に積極的だった民主党が政権を奪取したことで、全抑協の運動に弾みが付いた。2010年6月16日。元抑留者への特別給付金支給などを柱とする「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)が議員立法で成立した。

当時、民主党など与党と自民党などの野党は激しく対立していた。しかし衆議院本会議上で特措法成立するや、多くの議員が立ち上がり、傍聴席の平塚さんらに拍手を送った。それは議場の高い天井にこだまし、万雷のように響いた。

補償額は抑留帰還に応じて25万~150万円の5段階である。およそ6万9000人がそれぞれの額を受領した。

金額は、「桁が二つくらい足りないんじゃないか」と言いたくなるほど低額だ。しかし、「戦後処理問題は解決済み」という立場を取ってきた国に、事実上の補償をさせた、という点で意義は大きい。やはり補償を受けておらず、立法による解決を目指している空襲の民間被害者団体にとっても、特措法成立は希望の光となった。

30年近く運動にかかわった平塚さんら、多くの抑留経験者の粘り強い活動があればこそ、画期的な立法がなされたことを、確認しておきたい。

それから2年半。平塚さんは2012年12月17日、肺炎のため85歳で亡くなった――。

(明日公開予定の後編に続く)