この連載も残りわずかとなったので徐々にまとめに入りたい。今回主として参考にさせてもらう文献は『昭和史講義―最新研究で見る戦争への道』(筒井清忠編・ちくま新書)である。
日米開戦直前の日本を熱病のように覆った近衛新体制運動には次の二つの側面があった。
政治面ではナチスのように強力な新党樹立を目指したが、これは観念右翼から「新党は幕府的存在だ」と非難され、頓挫した。代わりにできたのが、当初の目標とはほど遠い大政翼賛会だったことは前回述べた。
一方、経済面では「資本と経営の分離」を目指す運動が進められた。これは私益を求める資本家から企業の経営権を切り離し、国が必要とする生産を行わせようとするものだった。
それだと資本主義を否定することになりはしないかと思われるだろうが、その通りである。当時の日本の経済官僚や軍人の考え方は、ソ連の計画経済やナチスの国家社会主義の影響を強く受けていた。
1939(昭和14)年秋、満州から帰国して商工次官になった岸信介もその一人だ。岸はまもなく陸軍「革新」派のリーダー武藤章軍務局長とともに月曜会という集まりを作る。
月曜会には逓信省の奥村喜和男、大蔵省の毛里英於菟、迫水久常、商工省の美濃部洋次ら統制派の官僚が加わった。月曜会のネットワークは商工次官の岸や、武藤ら陸軍幹部が後援する強力なものだったので、ここに集う官僚は「革新官僚」として脚光を浴びるようになる。
その典型が毛里である。彼は満州国での実務経験から、日本国内での計画経済の遂行と東亜共同体の結成を主張した。また、そうした仕事を担う官僚をナチス用語で「フューラー」(指導者)と呼び、日本国内でのナチス的指導者原理(=指導者への絶対服従)の確立を唱えた。
近衛の女婿・細川護貞の『細川日記』(中公文庫)の昭和19年3月30日の項には「毛里氏夜来る」として毛里の発言と細川の感想が記されている。
〈国家が凡ゆる国民の消費生活まで統制する方式が理想なりと。之が為には、列挙主義の自由を廃したる憲法を作らざるべからずと。彼(=毛里)はマルキストと其軌を一つにする者なり〉
毛里の思想がナチズムかマルキシズムかはともかく、全体主義なのは間違いない。彼のいうフューラーは、人間の生活の隅々まで支配する超人のような存在だ。民衆はその超人に従いさえすれば幸福になれる。