ニッポンの難題「一票の格差」の落とし穴〜是正は本当に必要ですか?

よく聞く論理の「矛盾」とは
山下 祐介 プロフィール

平等を強調しすぎると…

繰り返そう。もしはじめから多数派の意見が国の決定となるべきだとしたら、何でも国民投票をすればそれでよいはずなのだ。

しかしその場合、少数派の意見は一切尊重されないということになり、多様な国民の間に分裂を導くだけでなく、その下した決定に国民たちが納得できないことになれば、その決定によって行われる政策自身が現実に実行不能なものとなっていくだろう。

あるいは政策決定が、少数派にとっての多数派による強制へと変質していくことになる。いずれにしても、多数の多様な人々が一緒に暮らしている現実の中で、多数派が全てを決めてしまったら、国家としての体をなさなくなる。

民主主義、人民主権とは、国民が自らの手で合理的な政策決定を行う理想を追求するものであって、多数派こそ権利があるというような幼稚な理念を指すものではない。

 

こうして、民主主義で運営される国会とはつまり、多数決の場などではなく、人民の代表による自由な討議をつくして、国民の総意を引き出し決定する場だということができる。

それゆえ、そこに参集される国民の代表としての議員を選ぶ権利は、必ずしも一様に、画一的に平等である必要はない。逆に平等を強調しすぎれば、多様な意見が現出することを妨げ、自由な討議ができなくなるだろう。

というのも、国策に関する国の決定は、多数派の国民の意見からつくればそれで正しい選択に至るという単純なものでは決してないからである。

むしろ、少数派を含めて多様な意見を浮かび上がらせ、それをつぶさに検討し、討議し、国家という集団全体の方向性を間違わないように全体としての決定を適切に行うこと――これが国会に求められている責務である。

そのためにも決定に関わる多様な意見の表出を、各代表がその背景とする集団単位ごとにしっかりと集約し、疎漏のない政策形成が実現できる条件を整えることが大切となる。

選挙枠は価値の画一化を防ぐ砦

逆にいえば、一票の格差を是正せよという主張は、国会に代表として参集される人々に、そこに現れた多様な意見を集約することなく――つまりは選挙で負けた側の意見、自分と異なる意見に配慮することなく――、自分を支持した人々のためだけに行動すればよいというものであるということになる(そして実際、近年の議員にはそう考えている人々が多くなってきている)。

いやそれどころか、一票の格差論は、そもそも選挙の際の地域区分の撤廃すら求めている。一票の格差を是正するのに一番良い方法は、選挙枠を外すことである。というよりも、一票の格差が生じるのは、国民を複数の枠に区分して代表を選出させるからに他ならない。

一票の格差を是正するなら、地域枠などとっぱらって1億2000万人のうちの有権者全員で475人(衆議院)なら475人の議員を直接投票すればよいのである。

だが、そのようなことをすれば何が起きるか。

最大のマジョリティが多くの議席をとり、同じ意見の者たちの意見だけを採用して、議員が国策の決定をしていくことになるはずだ。マイノリティの意思は475人のうちの1人に入れるかどうかによって尊重されるかどうかが決まるが、それだって国会の議決に尊重される保証はない。ごく一部の人の代表に過ぎないのだから。

こうした選挙と国会運営を繰り返せば、より大きな集団やより中心的な意見だけが通ることになり、逆に数にものを言わせて自分にとって有利な決定を下そうとする勢力が幅をきかせることになる。すべては数の勝負になる。選挙を重ねるたびに、議決を経るたびに、少数意見は表明することができなくなっていく。国会における議論の画一化が進むことになるだろう。権力は次第に一極に集中していく──。

もう一度言おう。民主主義国家における国会議員は、多数派の代表ではなく、多様な国民全員の代表なのである。議員はどんな意見を背後に置いているのであれ、国民全体の利益を考えて討議を行い、議決に参加しなければならない。選挙が国会議員を国民のうちの多数派の利益代表を選ぶ手段として意識されてしまえば、ある意味で私的な意見の集約が国家の決定として採用されることを許す事態になる。これは大変危険なことだ。

逆に言えば、選挙の際の地域枠とは、権力の一極集中化、国策に持ち込まれる価値の画一化を防ぐために各地に設けられた砦だと考えるべきものだ。地域エゴの手段などではないのである。

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