孤独を守り、売淫の巷を彷徨い続けた強靱なる身心

永井荷風Vol.1

 明治四十一年七月、永井壮吉(荷風)は、神戸港に着いた。アメリカ、フランス、イギリスを経た五年の洋行であった。東京帝国大学農科大学実科を卒業したばかりの末弟、威三郎が一人出迎えた。翌日、新橋に到着し、大久保余丁町の父宅に着いた。

 その晩催された帰朝祝の宴が、内輪だけのごく小規模なものであったのは、荷風の洋行が一家にとって不本意なものだったからである。

 中学で一年休学し、高等学校の受験に失敗した後、東京外国語学校清語科に在籍はしたものの、落語家に弟子入りしたりと、逸脱を重ねた。

 父、久一郎は、文部官僚として高位を極めた後、伊藤博文、西園寺公望の需めで日本郵船に勤務していた。父は、息子の人生を立て直すために、アメリカに留学させる事にした。

 荷風は、父の期待に背いた。

 明治三十六年九月に横浜を発し、シアトル近郊のタコマに着いた。シアトルは日本郵船の定期便があり、父親としては安心な場所だった。

 けれど、悪所通いを早速はじめた荷風は、フランス語を学ぶ他、勉学らしいことはせず、せっせと創作にいそしんだ。

慶応仏文科に残る不思議な云い伝え

 三十八年七月、荷風はワシントンの日本公使館に臨時要員として雇われた。セオドア・ルーズベルトの提議により、アメリカが日露講和の舞台となったため、公使館が人手不足に陥ったからである。父の斡旋で、ニューヨークの正金銀行の事務見習になり、ついで同行のリヨン支店雇員になった事で、フランス行は実現した。

 明治四十年七月、荷風はフランスの土を踏んだものの、銀行業務に耐えられず、たびたび欠勤するようになり、ついに父の命により、イギリス経由で帰国したのである。

 失意の帰還だったが、荷風の運命はここから反転する。米国滞在中に送っていた原稿が、博文館から『あめりか物語』として刊行されて、大変な好評で迎えられたのである。

 『ふらんす物語』は、発禁処分を受けたものの、以降、『中央公論』、『新潮』、『スバル』、『新小説』等に寄稿する人気作家となった。

 慶応大学のフランス文学科には、不思議な云い伝えがある。博士、教授を目指して論文を書いている院生が、ある日、荷風の本を脇に抱えて研究室にやってくる。そうすると学生たちは「××さんも、もうダメだな」と囁きあうのだ。

 もともと慶応の文学部というのは、森鴎外の肝煎りで荷風を招いて設立されたのだから、不思議といえば不思議な話ではあるが。たしかに荷風の作品には、アカデミズムのラットレースとは絶対的に相容れない部分がある。

 荷風の抱いていた懸隔は、アカデミズムにたいしてだけではない。世間にたいして、国家にたいして、公序良俗にたいして、文壇にたいして、埋められない溝を自ら掘り、時代の価値観との迎合を拒否してきた。それを孤高というべきか、独善とするべきかは、意見の分かれる処だろうが、孤独を守り売淫の巷を彷徨い続けた身心の強靱さは、やはり尊敬に値するものだろう。

 『ふらんす物語』の発禁の後、荷風は『中央公論』に短編「祝盃」を掲載した。後に『新橋夜話』として纏められる連作の第一作である。荷風は『夜話』について「収むる処の短篇小説尽く芸者の事を書きたり」と書いている。

新橋停車場 1872年、日本初の鉄道路線の起点。現在、跡地には当時の駅舎が再現されている

 新橋は、狭斜の街としては新しい。明治五年二月、銀座、京橋、丸の内を焼いた大火の後、東京府知事由利公正は、木造建築を銀座から撤去し、煉瓦通りに建て替えた。この時、待合、茶屋、芸者屋は、空地になった烏森神社辺の旧幕時代の藩邸跡に移ったのである。

 新橋の花柳界にとって幸運だったのは、同年九月に新橋-横浜間の鉄道が開通した事だった。貴顕紳士たちが、横浜との行き帰り、新橋で享楽するようになり、またたく間に東京一の歓楽街になった。

「南北三十余軒のお茶屋を通して一ばん勢力のあったのは浜の家であった。場所はいまの駅前広場(中川修理大夫邸跡)で、構えも立派だった。主人というのが茶幸といわれたご用聞きで、大へんなカオをもっていた。女将は、小浜という名妓あがりで、芸妓たちは、彼女に睨まれると縮みあがったという」

(『通いみち新橋』古谷綱治)

 荷風が新橋で遊ぶようになったのは何時頃なのか、詳らかにはしない。渡米前は、洲崎など下町の遊郭に出入りしていた。前に触れた「祝盃」は、『夜話』の収録作品としては、もっとも初期のものだけれど、文庫本で三十頁ほどながら、荷風の面目をよく伝える作品だ。ある時、「私」は、旧友の「岩佐」から、「祝盃を挙げたい事がある」と呼び出される。

 二人は中学の同級生だった。クラス旅行を抜けて二人で吉原に繰り込む。その体験は、強烈なもので、通いたいが金が続かない。ビヤホールや勧工場の女に贈り物をしたりするなか、岩佐が西洋料理屋の娘を口説く事に成功する。「私」も、自家の小間使いに手を出す。

 手を出してみて、事が露見するのではと煩悶しているうちに、小間使いは実家の父が大病したというので帰郷し、そこで縁づいた。

 一方の岩佐は、娘が妊娠したため房州へと逃げ、夏の休暇が終わってみると、西洋料理屋は潰れて、一家はいなくなっていた。

 二人は大学を卒業すると派手に遊興を楽しむが、いつしか疎遠になった。そこに突然、岩佐が連絡してきたのだ。岩佐は、料理屋の娘と静岡で再会したこと、子供は流産したこと、静岡で芸者になり、落籍されて有福な茶屋の内儀になったと云う。

「祝盃を挙げざるを得ないじゃないか。たった今新橋へ着いたばかりだ。まだ家へも帰らんのだ。何しろ一刻も早く君に逢って話がしたいと思って電話をかけたのだ。我輩のむかしの罪悪もとうとう消滅してしまった。僕がお富を弄んだという事がお富の身の上には少しの不幸にも幸福にもなっていない」

 悪をなして、何の報いもうけない。その事態を祝福する事は、世の良識家の顰蹙するものだ。公式の倫理を敢然と嘲笑して、怯えのない言葉は、しかしまたかなり勇気を必要とするものでもあるだろう。荷風散人の面目躍如というところだろう。

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