大橋巨泉さんの妻がはじめて語る「夫婦の愛」

死へ向かう日々にわかったこと
大橋寿々子
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言葉にしなくても分かる

特に56歳で「セミリタイア」して、カナダやオーストラリア、ニュージーランドに移り住むようになってからは、365日、ゴルフも食事も何をするのも一緒。65歳で美術に目覚め、本を出版したときもヨーロッパ中を二人で旅しました。'01年民主党から出馬し、参院選に当選した際も、もちろん一緒です。

「おい」と言えば、「はいはい」って何をしてほしいか分かる。お互いのことが、分かり過ぎるくらい分かる夫婦になっていたと思います。入院してしゃべれないときでも、目をみればだいたいのことは分かる。最期は声が出なくなって「ありがとう」と何度も口を動かしていました。

亡くなる数日前も、意識は朦朧としていましたが「じゃあ、帰るね、おやすみ」と言って顔を近づけると、ちゃんと唇を尖らせて、「キス」の形をしてくれたんです。

結婚してから朝のおはようと、寝る前のおやすみの「キス」は、ただの一度も欠かしたことはありませんでした。それくらいもう習慣になっていたのでしょう。

 

入院中は「原稿も書けない、ゴルフもできない、ワインも飲めない、だったらもういっそのこと死にたい」と漏らしていたこともありました。でも弟の哲也が病室にゴルフクラブのグリップ部分だけを持っていくと、もう仔犬のように撫で回してね。本当に嬉しそうでした。

コラム『今週の遺言』では、政治、経済、ゴルフ、野球、相撲……など、様々なテーマについて書いてきました。好きなように書かせてくれた『週刊現代』には感謝していました。講談社の悪口を書いても何も言ってこなかったと。

自分を政界に誘った菅直人さんが総理になり、東日本大震災で失政と批判を浴びたときも「自分が信じた男はこの程度だったのか」と厳しいことを書いていました。

テレビ業界でも何でも、今はハッキリ「名指し」で怒ってくれる人がいなくなったでしょ。皆、番組を降板させられることを恐れて、当たり障りのないことしか発言しない。でも主人は「いやなら降ろせばいい、いつでも辞めてやる」というスタンスで仕事をしてきましたから。

舛添さんが東京都知事になったときも「彼は信用できない」「東京五輪はカネがかかり過ぎる、そのカネを少しでも福祉に回したらどうか」とコラムで書いていました。ちょうど病室で舛添さんの言い訳タラタラの会見を見て「やっぱりそうだろうと思った」ってこぼしていた。

ある時期は、政治にしても原発についても「怒りの巨泉」でした。でも最期の入院中は「仏の巨泉」になってしまった。そう言ったら「まだ仏じゃない」って怒られてね。

亡くなった後、カナダや千葉の自宅から、英字新聞や日本の新聞、パソコンからプリントアウトしたものに一杯、赤線が引いてあるのが見つかりました。タイトルのついている原稿用紙まで出てきた。まだまだ書きたいこと、言いたいことは山ほどあったのでしょう。