フジ「月9」はなぜ瀕死状態になったのか? ついに打ち切り話まで…

その栄枯盛衰をたどる
中川 右介 プロフィール

「月9」と木村拓哉の深い関係

高視聴率作を並べると、木村拓哉主演作が多いことが分かる。「月9」の隆盛は同時に木村拓哉の、さらにはSMAPの隆盛と連動している。

フジテレビ月曜9時が連続ドラマになったのは1987年4月からだった。昭和天皇が手術をした年で、いったんは快復し公務にも戻ったが、翌88年秋に倒れ、89年1月7日に昭和は終わる。

つまり、「月9」の歴史と平成史はほぼ重なる。同時にSMAPの歴史も重なり、彼らがジャニーズ事務所に入ったのが87年で、そのなかの6人がSMAPというグループになるのが88年、そして「月9」が最初に社会現象化する大ヒット作『東京ラブストーリー』『101回目のプロポーズ』の1991年に、SMAPはCDデビューを果たす。

木村拓哉が最初に「月9」に出たのが93年の『あすなろ白書』で、主役ではなかったのだが、彼の人気が爆発し、それに牽引されてSMAP全体も有名になっていく。

その次に木村拓哉が、今度は主役として登場したのが96年4月の『ロングバケーション』だ。同時に月曜10時の『SMAP✕SMAP』も始まった。

木村拓哉以外のメンバーも、全員が「月9」では主演しており(稲垣吾郎のほうが木村より早い)、SMAPと「月9」の蜜月が続いた。

ここまで関係が深いと、SMAP解散により12月で『SMAP✕SMAP』が終わるからには「月9」にも何らかの決断が必要になるのではと、誰もが思う。

いまのところ、フジテレビの亀山千広社長は「月9」打ち切り説を否定しているが、来年4月の番組改編期にどうなるかが注目されているわけだ。否定しているということは、そういう話が出ていることを逆に物語っている。

 

「月9」を踏み台にして社長になった

フジテレビが1987年に月曜9時をドラマ枠とした時、編成局にいて担当したのが、現社長の亀山千広である。当時31歳だった。

当初は恋愛ドラマではなくマスコミ業界を舞台したドラマが続き、それらはフジテレビではなく、外部のプロダクションに外注されていた。亀山は局側のプロデューサーとして、いくつもの作品を手がけ、最初のヒット作が田原俊彦主演の『教師びんびん物語』(88、89年)だった。

88年から「月9」枠はフジテレビ第一制作部がつくるようになり(その後も外部プロダクション制作のものもある)、1946年生まれの山田良明と58年生まれの大多亮が担う。

二人は「月9」を始めるにあたり、ターゲットを20代の女性に絞った。こうして始まったのが、トレンディードラマ路線である。

1988年に、月曜9時ではなく木曜10時枠で放映した『抱きしめたい!』で、トレンディードラマは確立される。浅野温子と浅野ゆう子の「W浅野」時代の到来でもあった。

大多が『東京ラブストーリー』『101回目のプロポーズ』『ひとつ屋根の下』などのヒット作を放っている頃、亀山も第一制作部に異動になるが、なかなかヒットを出せないでいた。

93年の『あすなろ白書』から亀山もヒットが出せるようになり、『ロングバケーション』で頂点を極める。「木村拓哉時代」の始まりだ。

その後、亀山は「月9」ではないが『踊る大捜査線』をプロデュースし、その映画版が大ヒットした。

亀山と大多はともに社長候補と目されるようになり出世街道を歩むが、彼らが現場から離れ、役員になった頃から「月9」の低迷、そしてフジテレビ全体の業績悪化が始まる。

そして、出世レースでは亀山が勝利し、2013年に社長になった。

こういう流れがあって、こんにちの「月9」は存在する。