バブルもびっくり!? 戦前昭和クリスマスの狂乱っぷりがスゴかった

軍靴の音もどこ吹く風…
堀井 憲一郎 プロフィール

1831年12月26日の記事。

「仮装舞踏の最中 暴漢汚物をまく クリスマスの夜を踊り狂う 新宿帝都座の騒ぎ」

「二十五日午後六時半ごろ、百二十余人のダンサーを擁し、都下でもっとも豪華を誇っている開場間もないダンスホール帝都座(四谷区新宿三丁目・帝都座ビル内)に、二人組の壮漢が暴れ込み、汚物騒ぎを演じた。

あだかもクリスマス当夜、同ホールでは、中央のバンド団の両側に大きなクリスマス・ツリーとサンタクロースを飾り、天井から放つ五彩の光線は場内をいやが上にも華やかにしていた。

そしてちょうど仮装舞踏会の催しで、水兵や奥女中にふんしたダンサーと、おどけたペーパーハットや目かくしのマスクをかけた踊り客とがもつれあい、まさにフォックスロットが始まろうとして、九十組ばかりがステップをふもうとしていた時、ニコニコがすりの袷に袴を穿いた五尺八寸ぐらいの大男と洋服の男が、場内につかつかと入って来、その和服男はホールの真中に立ちはだかり、いきなり大声に「この馬鹿野郎ども!」とどなるや一升びんに詰めた汚物の栓をとって、ぐるぐる頭上にふり回し、あたり一面にまき散らした上、そのびんを床上にたたきつけた。

命の次に衣物が大事な百二十余名のダンサーと、三百余人の踊り客や見物人達はあつけにとられ、中にもダンサーたちは悲鳴をあげて、場内をにげまどい、色を失って知り合いの客とともに逃出す者等あり、一時場内はざわめき立った。」

和服の男は悠々と5階から4階へ階段をおりているところを事務員にとらえられ、駆けつけた警察官に引き渡した。男は39歳、新宿の暴力団員で、「わたり」をつけようとして断られたので汚物をまいたという。

「満州事変の起こっている際、踊り狂っているのは怪しからぬから、やつたのだ」とも豪語している。

ダンサー小杉千代子は語る「あれで六時半頃ならよかったものの、あれが八時から十時頃の混み合う時だと大変だったと思います」

長々と引用したが、当時のダンスホールの雰囲気がよくわかる。

バンド団(おそらく当時流行していたビッグバンドのことだとおもう)がジャズを中心に演奏しており、その両側には大きなツリーとサンタクロースがあり、妖しく五色のライトが輝いている。

もっとも混むのは夜8時から10時くらい。店に専属のダンサーがいて、客は彼女たちと踊ることができる。おそらくクリスマスイブとクリスマス当日が一年でももっとも稼ぎ時だったとおもわれる。そういう風景がわかりやすい。

満州事変などどこ吹く風!?

また壮漢は「満州事変が起こっているのに、怪しからぬ」と言っているところがひとつのポイントでもある。

新聞記事は、あくまで暴力団員が「わたり」をつけようとして断られたこと(いわゆるミカジメ料を取れなかったということ)が騒動の原因だとしており、満州事変の、という部分は後付けの理由だと言外に記している。彼の口からはそういう言葉が出ているが、どう見ても、用心棒代を払わないための嫌がらせだろう、と読める記事である。

つまり、新聞の意見としては、満州事変だからクリスマスは自粛するべきである、とはまったくおもってないこと、が暗示されている。しかし同時に、世間の一部では反クリスマスの感情があるということも示唆されている。

満州事変はこの年1931年の9月に勃発し、翌年に満州国の成立をもっていちおう終結する。この12月は関東軍は満洲エリアにおいて戦闘を継続している。

紙面にもその状況は刻々と伝えられているが、しかし、後年の私たちが考えるほど(このあとこの動きがどうつながっているかという視点から憂うほど)世間は動揺していない。楽観してる。

日露戦役も欧州大戦でも日本は勝ったわけで、日本軍は初動の電撃作戦が得意で序盤で勝ち続けることによって、日本軍は世界でもトップクラスに強い軍隊だと国民全体が信じていた気分がよくわかる。

陸軍という役所が、海外でまた次の事業を始めているというような他人事感がとても強い。国民ががんばらなくても、軍隊が何とかしてくれるよ、という雰囲気がある。たぶんそれが当時の正直な気持ちだとおもう。

満州事変や国際連盟の脱退くらいでは、クリスマス熱狂はおさまらない。

そのへんのクリスマス昭和史は、できれば強く覚えておいていただきたい。

もちろん「ぼんやりとした不安」を抱えていた人たちもいたのだろう。その不安ぶん、かえって狂乱的な消費に走っていた、と見られなくもない。事象としては、満州事変の勃発した昭和6年から3年ほどが〝日本クリスマス史上、もっとも狂乱的に騒いでいた時期〟だと言える。

(つづく)