宇多田ヒカルを縛り続ける「アーティスト信仰」という呪い

「90年代の夢」はもうやめません?
さやわか プロフィール

背負わされた「海外進出」の夢

しかしそれでも、宇多田ヒカルには90年代後半に登場したという時代的な宿命のようなものがあるのかもしれない。実際、彼女自身も心理主義的なものとしてしか、音楽を作れない。

もともと宇多田は初期には和製R&Bとして、洋楽っぽさを強調した楽曲で登場した。しかし内面を掘り下げる心理主義的なアーティスト性が求められていけばいくほど、彼女の音楽性はシーンの流行を追い求めるよりは独特の情感を描き出すものになっていく。

つまり宇多田は、若い感性もあってCDが最も売れていた90年代を代表するアーティストになったが、彼女がその後に「アーティスト」たらんとすればするほど、その音楽性はワンアンドオンリーにならざるを得なかったのだ。

 

宇多田ヒカルは2004年にアルバム『EXODUS』で全米デビューを経験している。「Utada」名義で発売され全編を英語詞で歌っていることからもわかるが、このアルバムは明確に海外市場でのセールスを意識したものだ。日本では輸入盤として販売された。

しかし、作品としてみればそれは海外の流行以上に、まさに独特の音楽性を重視したものであった。アメリカでは2曲目「Exodus '04」がリードナンバーとされたように、このアルバムは全般的にリズムをタイトに刻み続けつつも、オリエンタリズムやエキゾチックさ、異国情緒などが感じられるものになっている。

むろん日本でのデビュー初期のようなわかりやすい洋楽っぽさを控えるというのが戦略だったのだろうし、ビルボード160位という結果を優れたものだとする人もいるだろう。しかしこれを機に彼女の海外進出が発展していったわけではないことを考えると、成功したとはいえないだろう。

国内での評価は盤石だった宇多田は、まさに周囲から「海外進出」という夢を背負わされて全米デビューしたわけだが、彼女の作るものはこの時点ですでに、生き馬の目を抜くような全米音楽シーンと親和性が高いわけではなかったのだ。

〔PHOTO〕gettyimages

宇多田ヒカルが抱えるジレンマ

「ポピュラー」になればなるほど「理解できないアーティスト性」を要求されるというのが、90年代における「アーティスト信仰」が生み出すジレンマだ。それで宇多田も自分の音楽を独特なものに変質させていった。

その結果として生み出されたのが前述の『EXODUS』のような、どこか流行には歩み寄らないような異国感なのだ。宇多田は以後、デビュー当時のようなわかりやすい「流行の洋楽っぽさ」に戻ってこようとはしなくなった。

唯一無二の「アーティスト」として「文学的」な作品を生み出しつつも、それらは「ポピュラー音楽」として消費されるという奇妙なサイクルが繰り返されていった。

しかし『Fantôme』は極めて私的な内容を扱ったアルバムで、その「文学的」な作品性は、今まで宇多田が培ってきた、ワンアンドオンリーな音楽性とよくフィットする。だからこのアルバムは実にリスナーの心に響くものになっているのだ。

もちろん、言い換えればそれは実に日本的な感性による、過剰な「アーティスト」性が生んだ作品だということではある。そういう作品自体、今の時代にはわりに珍しいものになっている。そういう意味では、やっぱり彼女は90年代の申し子なのだ。だけど、そのこと自体は何も悪くない。むしろ作品の質は高いのだ。

しかし、そういうものに対して、何週1位だったとか、全米チャートでどうしたということにこだわってしまうのは、90年代的な音楽の評価軸をも現代に適応しようとしているわけで、それは無理筋というものだろう。

とはいえ、宇多田ヒカルは今後もそういう評価をされ続けるだろう。彼女はやはり、90年代に現れた宿命を背負っている。そうした評価は歯がゆいが、しかし彼女の生きざまは、日本の音楽シーンの現状を映し出す鏡のようなものであり続けるに違いない。

僕たちは宇多田ヒカルの音楽の奥深い本質には到達できないかもしれないけれど、せめてその動向だけは見守っていたいものだ。

さやわか
ライター、評論家、まんが原作者。『ユリイカ』『クイック・ジャパン』ほかで執筆。『AERA』『ビッグガンガン』ほかで連載中。関心領域は物語性を見いだせるもの全般で、小説、音楽、映画、漫画、アニメ、演劇、ネットなどについて幅広く評論。著書に『僕たちのゲーム史』『一〇年代文化論』『キャラの思考法』ほか。近著に『文学の読み方』。TwitterのIDは@someru
いったい「日本文学」とは何なのか? 全ては”錯覚”にすぎなかった―。
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