日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由

尊い犠牲の上に、今日があるからこそ
栗原 俊雄 プロフィール

大西の願いは叶ったのか?

ところで、大西が前述の多田力三中将に特攻構想を明かした際、多田が強く反対していたら、どうなっていただろうか。それでも、まず間違いなく、特攻は遂行されただろう。なぜなら、特攻は一人大西だけでなく海軍上層部の意思だったからである。

いかに海軍航空部隊育ての親の一人といえども、大西は一中将である。大西一人では、作戦の成功=死という「作戦」を始めることはできたとしても、それを組織的に継続することは不可能であっただろう。

たとえば1944年10月25日に「敷島隊」が突っ込む前の同月13日、軍令部作戦課参謀だった源田実が起案した電報には、「神風特別攻撃隊」の隊名として「敷島隊」「朝日隊」等が記されている。

また軍令部作戦部長だった中澤佑少将によれば、大西はマニラ着任前、及川古志郎軍令部総長に会い、特攻の「諒解」を求めた。同席した中澤によれば、及川は「諒解」し、「決して命令はして呉れるなよ」と応じた(『海軍中将 中澤佑』)。

この席で本当に大西から航空特攻を申し出たかどうかは、疑問も残るところだ。いずれにしても、海軍の実質的最高責任者である軍令部総長が遂行に同意していたことは確かだ。

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さらに言えば、実は航空特攻以外の特攻は、「敷島隊」のずっと前から決まっていた。「人間魚雷」回天の試作が始まったのは1944年2月である。

「自分も後から続く」と約束しながら、長い戦後を生き延びた将軍に比べれば、いや比べる意味がないほど、大西は潔かった。

その大西の願い、「民族の記憶」は実現したと言える。敗戦から71年が過ぎた今日まで、特攻はときに祖国愛や同胞愛を語り振り返る文脈のなかで語られ、現代人の感動をよんでいるからだ。

それは「家族や国を守るため、自ら命を投げ出した若者たち」に対する共感や同情であり、「戦争でなくなった人たちの尊い犠牲の上に、今日の繁栄、平和がある」という歴史観にも通じる。

本当に死者たちを悼むならば

こうした「『尊い犠牲=今日の繁栄と平和』史観」は、戦没者の追悼式で、来賓の国会議員などがしばしば口にするフレーズだ。

筆者はこの歴史観に同意する。同意するが、そのフレーズには危険性があることも感じている。それはたくさんの犠牲者たちを悼むあまり、追及すべき責任を追及させなくさせる呪文になり得るからだ。

 

本当に死者たちを悼むならば、以下のことを考えるべきだと、筆者は思う。

たとえばたくさんの人たちが死んだ戦争を始めたのは誰なのか。あるいはどの組織なのか。敗戦が決定的になっても降伏しなかったのか誰なのか。そしてそれはなぜだったのか。特攻でいえば、それを始めたのは誰だったのか。責任者は責任をとったのか、とらなかったのか、と。

「特攻は志願だった」

戦後、特攻隊を送り出した上官らによって、特攻はそう物語られてきた。しかし、冒頭にみた江名さんのように、意思をまったく聞かれないまま特攻隊員にされていた人もたくさんいる。筆者は水上特攻として動員された戦艦「大和」の生還者20人にインタビューしたが、「作戦」参加の意思を聞かれた人はただの一人もいなかった。

そして注目されがちな航空特攻と違い、忘れられた特攻隊員も、たくさんいる。たとえば、満州の荒野で押し寄せてくるソ連軍戦車に爆雷を抱いて突っ込んだ兵士たちだ。

他の民族がそうであるように、私たち日本民族も、自分たちの歴史を誇らしいものとして記憶しがちだ。それゆえ、特攻も美しい物語として記憶されてゆくだろう。そういう側面があったことは確かだが、そうではなく、強制されて死んでいった若者たちがたくさんいたこと、さらにはそうした死の多くが忘れ去られてしまっていることも事実だ。

筆者は今後も、トータルとしての特攻を取材し、執筆したいと思う。

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