日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由

尊い犠牲の上に、今日があるからこそ
栗原 俊雄 プロフィール

なぜ「続けざるを得なかった」のか

1944年10月、大西が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに向かう前のことである。大西は多田力三中将(軍需省兵器総局第二局長)に特攻構想について話した。

多田が「あまり賛成しない」と述べたところ、大西は「たとえ特攻の成果が十分に挙がらなかったとしても、この戦争で若者達が国のためにこれだけのことをやったということを子孫に残すことは有意義だと思う」と話した(『日本海軍航空史(1)用兵編』)。

また毎日新聞記者で、海軍に従軍していた新名丈夫の証言をみてみよう。

大西は「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をすることはできない。戦争は負けるかもししれない。しかしながら後世において、われわれの子孫が、先祖はかく戦えりという歴史を記憶するかぎりは、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。われわれはここに全軍捨て身、敗れて悔いなき戦いを決行する」と話していたという(『一億人の昭和史3 太平洋戦争 昭和16~20年』)。

二人が残した大西証言がその通りだったとしたら、大西にとって大切だったのは戦果だけではない。後世の人々に、自分たち先祖がどう戦ったかを記憶してもらうこと、いわば「民族的記憶遺産」を託すことであった。

右が大西中将【PHOTO】gettyimages

大西はもう一つ、特攻を続ける理由があったのかもしれない。それは、その「作戦」を続けていれば、いずれ昭和天皇が停戦を指示するだろう、という期待だ(この大西の心情については、角田和男『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』などに詳しい)。

天皇は、特攻をどう受けとめていたのだろうか。

 

海軍に続いて陸軍が航空特攻を始めたのは11月12日。フィリピン・マニラ南方の飛行場から「万朶(ばんだ)隊」の4機が飛び立った。大本営は翌13日、「戦艦1隻、輸送艦1隻撃沈」と発表した。

同日、梅津美治郎参謀総長が、昭和天皇に戦況を上奏した。天皇は「体当リキハ大変ヨクヤッテ立派ナル成果ヲ収メタ。命ヲ国家ニ捧ケテ克(よ)クモヤッテ呉レタ」(『昭和天皇発言記録集成』掲載、「眞田穣一郎少将日記」)と述べた。

これに先立つ同月8日にも、天皇は梅津に対して「特別攻撃隊アンナニタマヲ沢山受ケナガラ低空テ非常ニ戦果ヲアケタノハ結構デアッタ」と話している(同日記)。

「あんなに敵弾を受けて」云々という内容からして、天皇は特攻の写真もしくは動画をみたのだろうか。いずれにしても、これらの史料からは天皇が特攻の戦果を喜んでいることが分かる。

ちなみに、2014年に完成し公開された「昭和天皇実録」には、特攻に関する記述がある。それによれば、天皇は梅津からの報告に対して「御嘉賞になる」(同日)とある。「実録」は、1990年から宮内庁が国家事業として作成したものである。

四半世紀の時間と莫大な税金を投じただけあって、歴史研究の貴重な資料となるものだが、特攻の場面から分かる通り、天皇の生々しい肉声が削られている憾みが残る。筆者は毎日新聞オピニオン面のコラム「記者の目」で、具体的な例をあげてこの問題を指摘した(2014年8月18日)。

ともあれ、先に見た大西の狙いは、かりにそれが事実であったとしたら完全に外れた。

【PHOTO】gettyimages

後世の日本人に残すため

さて、特攻と言えば航空機によるそれがよく知られている。しかし軍艦などによる水上特攻もあったし、改造した魚雷に人間が乗る水中特攻、さらには上陸してくる敵戦車などに、爆雷を抱いて突っ込む陸上特攻もあった。実際は、航空特攻の死者よりこれらの死者の方がはるかに多かった。

たとえば1945年4月、沖縄に上陸した米軍を撃退すべく出撃した戦艦「大和」以下10隻の艦隊を、海軍首脳は「水上特攻」と認識していたし、命令は「片道燃料」であった(実際は現場の判断で往復可能な燃料が積まれた)。この「大和」艦隊の死者だけで3000人を超える。今回は紙幅の事情で詳細は省くが、機会があればこれらの特攻のことも書きたいと思う。

敗戦が決まった翌日の同年8月16日、大西瀧治郎は割腹自殺した。遺書の中で、死んでいった特攻隊員たちに感謝し、かつ彼らと遺族に謝罪している。

「特攻隊の英霊に曰す/善く戦ひたり深謝す/最後の勝利を信じつゝ肉/彈として散華せり然れ/共其の信念は遂に達/成し得ざるに至れり/吾死を以て旧部下の/英霊とその遺族に謝せんとす」

大西はさらに「一般青壮年」に向けて

「(前略)諸子は國の寶なり/平時に處し猶ほ克く/特攻精神を堅持し/日本民族の福祉と世/界人類の和平の為/最善を盡せよ」

とつづった。

大西は後世の日本人が「特攻精神」を継承することを、最後まで望んでいたことが分かる。