子どもの頃は特に読書好きではなかったんです。代わりにガンプラに熱中していましたね(笑)。
ただ、小学校高学年の時、薬師丸ひろ子が好きで、『ねらわれた学園』を観て、原作の眉村卓さんの小説に没頭しました。
歴史物を書く今の僕からすると意外かもしれませんが、最初にはまった本はSFだったんです。眉村作品はほかに『C席の客』も好きですね。
SFでいうと、高校時代に読みふけったのが星新一。たくさん本が出ていたので、何かしらの作品をいつも持ち歩いていたような気がします。当時買った文庫は今もたくさん持っています。
同じく高校の頃、映画『ターミネーター』を観て、「面白い!」と衝撃を受けたことは、人生の基点のひとつですね。映画への気持ちが高じて、テレビ番組の制作会社に就職し、脚本家を目指してシナリオコンクールに応募、そして今の小説の仕事につながっていきます。
進学先に早稲田大学の政経学部を選んだのは、当時、テレビなどマスコミ関係の出身者が多いということを聞いたから。ただ入ってみると、そもそも学生の数が膨大だから自然にマスコミに進む人も多いだけなんじゃないかと気付きます(笑)。
大学1年生の時、夏休みが暇で、「長いものでも何か読んでみようかな」と思い、大学近くの書店で手に取ったのが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でした。これがすごく面白い。もう一気読みです。
突き詰めると、やっぱり坂本竜馬が格好いい、ということになるんです。読んだ人はほぼ皆思いますが、竜馬のように生きたいと焚きつけられる感じがあるんですよね。
そして歴史ってこんなに面白いものなんだと知らしめてくれた小説でもあります。大まかにいえば、教科書で知る味気ない事実が、ドラマとして再構築されていることの醍醐味、でしょうね。
たとえば勝海舟に坂本竜馬が入門するくだりがあるとすると、勝海舟が「お前さんばかだねえ」と竜馬に言う。そんな描写が持つ独特の雰囲気の中で、歴史が紡がれる感覚です。
そして、今の僕の作風にも通じることですが、司馬作品はできるだけきちんと資料を明示して、本当にあったことを伝えようとしていることにも、魅力を感じます。読む人が知りたいと思う歴史の事実を記しつつ、かつ、面白いドラマとして読ませることも両立させている。難しいですが、書き手となったからには当然と考えて実践しています。
竜馬以降は、司馬遼太郎の作品を次から次へと買っては読み、買っては読みという毎日。昔から、本は自分の物にしたいという欲求があります。お金を出して読まないと、その作家が言ったり書いたりしたことが、自分に語りかけている感じがしてこない。自分との関係が確立されないんです。
司馬遼太郎の次に惚れ込んだのが山本周五郎。一時期、黒澤明に凝ったことがあり、『椿三十郎』の原作を読み始めたら、これがまた面白い。
海音寺潮五郎は、司馬遼太郎を評価していたことで興味を持ち、読み始めて好きになりました。以後20代を通し、この3人を読み続けていきます。
共通しているのが、読んでいると、「この人は信用が置ける」と感じること。作家のことを人間としてどんどん知りたくなり、ページをめくる手が止まらなくなる。僕が勝手に想像している部分もありますが、本人がなんとなく見えてくるんです。
たとえば司馬遼太郎は、竜馬に象徴される格好よさがありつつ大阪生まれの影響か、笑いの要素や砕けたニュアンスが楽しい。女好きの主人公が多いのも特徴かもしれない。
海音寺潮五郎は、『平将門』で描いているように、一本気だったり、正義感だったり、本当の「男らしさ」とは何かを変に粋がることなく、語りかけてくれます。作家本人が鹿児島出身で、薩摩隼人の末裔ということを知り、そこにルーツがあるのかもという想像もします。
山本周五郎は歴史物というより、架空の話が主体の時代物が多く、また違うタイプですが、人物の表現の仕方がとにかくうまくて泣ける。人柄が作品ににじみ出ているような気がします。
今も何かの折に作品を開く特別な作家たちです。新聞社で働きながら公募のシナリオを書いていたときも、常に傍らにあり、繰り返し読みました。
本は、映画やテレビ、ラジオなどと同じく、「媒体」のひとつ。単純だった僕を最も複雑にしてくれたのが本ですね。情報量や表現できることの多さは随一でしょう。大げさにいえば、三人の作家の作品をはじめ、いくつかの本が僕の人生観を作った気がしています。
(構成/佐藤太志)
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