「神風特別攻撃隊」の本当の戦果をご存じか?

一隻撃沈のために、81人の命が犠牲に…
栗原 俊雄 プロフィール

そもそも、ただでさえ動きが鈍く防御力の乏しい一式陸攻に2トンもの「桜花」を積んだら動きがさらに鈍くなり、敵戦闘機の餌食になるのは必定であった。実際、冒頭にみた、野口が護衛した「神雷部隊」の一式陸攻18機もすべて撃墜された(「桜花」を搭載していたのは16機)。 

敵艦は一隻も沈んでいない。被弾した野口機は、何とか帰還したが、「作戦」自体は大失敗だった。
 
敗戦まで、航空特攻の戦死者は海軍が2431人、陸軍が1417人で計3830人であった(人数には諸説がある)。一方で敵艦の撃沈、つまり沈めた戦果は以下の通りである(『戦史叢書』などによる)

正規空母=0/護衛空母=3/戦艦0/巡洋艦=0/駆逐艦=撃沈13/その他(輸送船、上陸艇など)撃沈=31

 

撃沈の合計は47隻である。1隻沈めるために81人もの兵士が死ななければならなかった、ということだ。しかも戦果のほとんどが、米軍にとって沈んでも大勢に影響のない小艦艇だった。

この中で大きな軍艦といえば護衛空母だが、商船などを改造したもので、もともと軍艦ではないため防備が甘く、初めから空母として建造された正規空母より戦力としては相当劣る。特攻が主目的とした正規空母は一隻も沈まなかったという事実を、我々は知らなければならない。

「撃沈はしなくても、米兵に恐怖を与えて戦闘不能に陥らせた」といった類いの指摘が、しばしばある。そういう戦意の低下は数値化しにくく、戦果として評価するのは難しい。それは特攻=「必ず死ぬ」という命令を受けたか、受けるかもしれないと思って日々を過ごしている大日本帝国陸海軍兵士の戦意がどれくらい下がったのかを数値化できないとの同じだ。

我々が知るべきは、特攻の戦果が、軍上層部が予想し来したものよりはるかに低かった、ということだ。むろん、特攻で死んでいった若者たちに責任は一ミリもない。

押し付けられた責任

ところで、「特攻隊を始めたのは誰だ?」。そういう問いに対してはしばしば、大西瀧治郎海軍中将の名が挙がる。実際1944年10月、フィリピン戦線で最初の特攻隊を見送ったのは大西だ。しかし、前出の豊田は言う。

一番右が大西瀧治郎【PHOTO】gettyimages

「大西が特攻々撃を始めたので、この特攻々撃の創始者だということになっておる。それは大西の隊で始めたのだから、大西がそれをやらしたことには間違いないのだが、決して大西が一人で発案して、それを全部強制したのではない」
 
特攻は、大西一人の考えで始まったものではなかった。たとえば軍令部第二部部長の黒島亀人である。同部は兵器を研究開発する部署であった。奇抜な言動から「仙人参謀」と呼ばれた黒島は、戦争中盤から特攻の必要性を海軍中央に訴えていた。

黒島以外にも、海軍幹部たちが特攻を構想・準備していた証拠はある(拙著『特攻 戦争と日本人』)。しかし戦後、特攻を推進した者たちは、自分が果たしたであろう役割を語らなかった。
 
大西は敗戦が決定的となった1945年8月、自殺した。若い特攻隊員を送り出した将軍のなかには「自分も後から続く」などと「約束」しながら、敗戦となるとそれを破って生き延びた者もいる。そして大西以外の特攻推進者たちは、「死人に口なし」とばかり、大西に責任を押しつけた。
 
巨大組織である海軍には様々な部署があったが、メインストリームは砲術つまり大砲の専門家であり、あるいは雷撃すなわち魚雷の専門家であった。そうした中、大西の専門は創設間もない航空であった。自分が育てた航空部隊への思い入れはひときわ強く、部下思いでもあった。

その大西がなぜ、航空特攻を推進したのだろうか。次回はその理由をみてみたい。

(文中敬称略)

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