田中角栄、最後の言葉「政治家は誰のためにいるのか」

彼が成し遂げたかったこと
松田 賢弥

「このトンネルについて、60戸の集落に12億円かけるのはおかしいとの批判があるが、そんなことはないっ。親、子、孫が故郷を捨てず、住むことができるようにするのが政治の基本なんだ。だから私はこのトンネルを造ったんだ。

トンネルがなかったら、子供が病気になっても満足に病院にかかれない。冬場に病人が出たら、戸板一枚で雪道を運んで行かなきゃならん。同じ日本人で、同じ保険料を払っているのに、こんな不平等があるかっ」

この演説には、角栄政治の原点があらわれているようにも思える。

よく知られた角栄の言葉に「政治は生活だ」というものがある。角栄は塩谷という辺地で、「誰のために政治家はいるのか」ということを問い直そうとしたのではないか。だからこそ、塩谷トンネルにこだわり、その落成式を、自身の逮捕と同じ日に行ったのだろう。

「塩谷は60戸しかなかったから、1戸4票としても240票にしかならない。見附市や三条市のような町場にドーンと投資したほうが、よっぽど票になるわけですよ。

それ一つ考えてみても、当時のマスコミが書いた『角栄は自分の選挙のために12億円の公共事業をやった』という批判はおかしいんだ」(前出・広井氏)

塩谷の昔からの住人はこう言う。

「トンネルがなかったら、私らは生きていかれんかった。あの時は『田んぼの畔まで舗装するつもりか』と笑われたよ。でもみんな必死だったんだ。角さんは貧乏人に優しい政治をしてくれた」

中越地震の後、小千谷市街の復興住宅に移った塩谷の主婦も語った。

「トンネルができる前は、子供が病気になったら熊の胆を飲ませるか、大人が総出で、雪の中を小千谷の病院まで運ばんくてはならんかった。ようやく病院に着いたと思ったら、事切れているのが普通さ。ひどいもんだった。角さんがそれを変えてくれたんだ」

 

「理屈じゃない。暮らしだ」

角栄を「金権政治家」と切り捨てることはたやすい。しかし、地元新潟の人々は口を揃えて、それだけで角栄を語り尽くすことはできない、と言う。

「角さんにとって、『金権政治家』のレッテルは屈辱だった。『金権政治家だったら、こんな田舎に来るか』というのが、あの日の角さんの正直な気持ちだったでしょう。

批判に対して、こうも言っていた。『大事なのは理屈じゃない。生まれ育ったところに帰って来られる。そこで暮らしていける。何が悪い。そうするのが政治家の役割だ』と」(前出・小田氏)

前出の友野広徳に、角栄は「トンネルで便利になっても、塩谷を出て行かんでくれ」と訴えていたという。「ふるさとは家族と一緒で、どんなにカネを積まれても離れられるもんじゃないよ」と言う友野は、その後も長年塩谷に暮らし続けた。

塩谷トンネルの落成から3ヵ月がたった'83年10月12日、角栄は東京地裁から懲役4年の一審判決を宣告される。落日を迎えた角栄にとって、まさに塩谷トンネルは「最後の大仕事」となった。郷里新潟の貧しい人々に自分は何ができるのか。角栄は政治家人生の最後に、自らの原点に返ろうとしたのかもしれない。

それから約20年後の'04年10月23日に起きた中越地震で、塩谷では小学生3人が建物の下敷きになって亡くなった。トンネルが完成した後も減ることのなかった約60戸の小さな集落は、この地震を境に一気に縮小を始め、今は19戸を残すだけとなった。

「あと少しだ」と自分に言い聞かせるように語ったあの日の角栄が見たら、何を思うだろうか。(文中一部敬称略)

まつだ・けんや/'54年岩手県生まれ。雑誌を中心に活動するジャーナリスト。'12年、小沢一郎氏の妻の「離縁状」をスクープ。著書に『影の権力者 内閣官房長官菅義偉』『小沢一郎 淋しき家族の肖像』など

「週刊現代」2016年10月29日号より