田中角栄、最後の言葉「政治家は誰のためにいるのか」

彼が成し遂げたかったこと
松田 賢弥

元新潟県議で、小千谷市に住む広井忠男はこう言う。

「田中さんはまだ村長も町内会長も案内してくれない無名のときに、地下足袋にゲートル巻きで(地元の田舎を)全部歩いている。だから、後で塩谷の人が陳情に行くと『おお、小千谷の塩谷か。あの道路が大きく曲がっていて、杉が3本生えている、あの先だな』と覚えているんです」

'54年、塩谷は小千谷市と合併し、隧道も県道に格上げされた。だが県道とは名ばかりで、裸電球のぶら下がる隧道には地下水が音を立てて漏れ出し、落盤で通行止めになることも頻繁だった。

一方、この頃から角栄は破竹の出世を遂げる。郵政大臣('57年)、大蔵大臣('62年)、自民党幹事長('65年)、そして'72年には自民党総裁に選ばれ、総理大臣となった。

目白の角栄宅に塩谷の住民が陳情に行く際には、小千谷駅から夜行列車に乗り、上野駅に着くのが午前4時ごろだ。

「深夜営業の喫茶店に入る金ももったいないから、山手線に何周も乗って時間を潰し、朝7時半に目白で降りるんです。手土産といっても、餅や鯉を提げていくくらいでした。

当時、マスコミには『田中邸の庭の池の鯉は1匹数百万円』なんて書かれていましたが、デタラメですよ。小千谷や山古志の人が持って行った安い鯉が多かったんです」(前出・広井氏)

何度も目白を訪れる塩谷の人々を、そのたびに「おう、おう」と言って出迎えた角栄は、こう訝しむこともあったという。

「隧道を改良してほしい? とっくに終わったもんだと思っていたよ。まだそんなこと言っているのか」

角栄は机上のベルを鳴らし、政務担当秘書の山田泰司を呼んですぐに指示を出した。

 

政治家は誰のためにいるのか

直後、角栄はわずか2年で総理を辞し、'76年にロッキード事件で逮捕される。「金権政治家」という謗(そし)りを一身に受けたその時に、角栄は塩谷トンネルの完成にこだわるようになったのである。

同年のロッキード選挙。当時、角栄の番記者を務めていた現・新潟日報社長の小田敏三は、長岡市内の旅館で目にした角栄のようすに驚いたという。

「角さんは必死だった。毎日夕方に宿に戻ると、黄ばんだわら半紙に、辻説法をした場所、人数、どんなヤジが飛んだかまで書き出すんです。『ロッキードはどうした!』と言われた、とかね。

その時、見ると角さんの手が傷だらけで、血が出ているんですよ。握手のとき、ご婦人方の指輪が引っかかるんですね。それほど政治家になって最大の窮地、議員バッジを失うかどうかという瀬戸際だった」

小千谷の村々をまわっているときには、昼食をとった直後でも、地元のお年寄りが差し入れを持って来ると、すぐさま平らげてこう言った。

「おっ、(郷土料理の)鮭の頭と大根の煮物か。うん、うまいなっ。うちの女房は東京モンだから、何回言ってもこの味が出ないんだ。おばあちゃん、ありがとなっ」

天才的な選挙のセンスを誇った角栄だが、この時ばかりは落選の危機を相当に意識していた。しかし前述したように、そんな非常時に角栄は、塩谷の小さな隧道まで足を伸ばして「もう少しだ」と住民に語ったのである。

「普通なら、あんな小さな集落に行っている場合じゃないんですよ。でも、誰かが案内したわけでもないのに、角さんは一人でスッと隧道の入り口に行って、奥をジーッと見ていた」(前出・小田氏)

角栄は、隧道の暗闇に何を見ていたのだろうか。

角栄が塩谷トンネルの落成式に設定した'83年7月27日は、ロッキード事件で自身が逮捕されてからちょうど7年目にあたる日だった。

その日、角栄が語った言葉を、今も塩谷の人々は忘れられないという。