「『人を描きなさい』という入試問題。制限時間は2日間!?」
「口笛を吹いて合格した猛者がいる?」
「卒業生は半分くらいが行方不明」
ここは東京のジャングルか…。今まで謎に満ちていた東京藝大の内なる世界を描いた『最後の秘境 東京藝大』が8刷10万部のベストセラーとなっている。
作者の二宮敦人氏は『廃校の博物館 Dr.片倉の生物学入門』などの作品がある小説家だが本作は完全なノンフィクション。藝大に在学中の妻の一挙手一投足に驚きを感じた二宮氏は、その謎と秘密を知ろうと、未知の世界、東京藝術大学に潜入するーー。
いまも藝大生の妻を観察し続ける二宮氏が、本書には描ききれなかった妻とのエピソードを特別公開する。
今日も、うちの妻は藝大生だ。
洗濯物を干しにベランダへと向かった僕は愕然とした。ああ、これが土砂崩れか。
コンクリートの床、排水溝へと繋がっている溝、全ては茶色い土に覆われている。木片やハンマー、ヘラ、バケツなどが散らばっている。嵐が通り過ぎた跡のような有様を前に立ち尽くしていると、妻が言う。
「像作ってるんだ」
藝大の彫刻科に在籍する妻は、現在卒業制作の真っ最中。通販で大量の粘土を注文したかと思うと、今度は鉄材を組み合わせて、針金で結んでまとめ、十字架のような形を作り上げた。この骨組みに粘土をくっつけて、人型の像を作っていくわけだ。
「粘土の像ができたら、石膏取りするんだ。そうして、石膏の像にするの」
どこかの部族の戦士のごとく、頬に粘土を塗りつけた妻が言う。
どうしても作業中、汗をぬぐったりするたびにくっついてしまうのだろう。もちろん着ているジャージもあちこち粘土だらけで、休憩で屋内に入るたびに零れ落ち、ベランダとトイレの間には粘土の道ができている。
「終わったら掃除してね」
「うん」
はじめは驚いたものだが、最近は僕もだいぶ慣れてきた。
汚れたって、あとで掃除すればいいのだ。汚れることを恐れていては、彫刻なんて作れない。
それにしても、妻の汚れに関する無頓着さはどこから来るのだろう?
「なんか、お母さんが全然怒らなかったんだよね」
妻のお母さんは、妻がどんなに服を汚して帰ってきても、一切怒らない人だったそうだ。砂場で駆け回って砂だらけになっても、泥でズボンがぐしゃぐしゃになっても、平然と着替えを差し出すのだという。
「だから私も、挑戦したくなっちゃったんだよね。どこまでいったら怒るのかなって……泥の中で寝て、泳ぎまわって。服に泥が付いているっていうより、泥の中に服があるって状態にして、帰ったことある」
「どうなったの?」
「怒られなかった」
好きなようにさせよう、という教育方針だったようである。泥まみれの娘を見て「おう、頑張ったね。さ、お風呂入って着替えなさい」と言えるのもなかなか凄い。わざわざ泥の中で平泳ぎする妻も、ちょっとどうかと思うのだが。
でも、洗えばいいのである。
ある日、僕が帰宅すると、玄関に靴が複数転がっていた。どうやら妻のお母さんが遊びに来ているようだ。そういうことはままあるので、さほど深く考えずに「ただいま」と中に入る。そして鞄を投げ出し、少し横になろうと寝室の扉を開けた。
と、そこに床屋があった。
首から白くて長いエプロンをかけ、手鏡を持って椅子に座っている妻。長かった髪はすっかり短くカットされている。切られた髪は、寝室中に散らばっている。布団は端っこに寄せられ、脇に並んでいるのはハサミやらクシやらの床屋道具。銀色のハサミを一つ持ち、掲げているお義母さん。美容師と客は僕の方を見ると、何気なく言った。
「おかえり」
お母さんには美容師の経験があるので、よく髪を切ってもらっていた、今度も切ってもらおうと思っている、と妻からは聞いていた。そして髪を切る以上、ある程度の空間が必要になるだろう。それはわかる。だが、まさか一夜にして寝室が床屋になってしまうとは思わなかった。
「あ、寝る? ごめんね、もう少しで終わりだから」
「終わったら掃除するよ」
二人はそう言ってくれる。
そうなのだ。掃除すればいいのである。
そんな妻は、時々実に面白いモノを作る。
本に載せた、甲羅がフェルトになった亀もそうなのだが、ここではせっかくなので別のものを紹介したい。
それは、銅でできたアルマジロだ。一枚の銅板をハンマーで叩き、さらに表面を彫って作られている。人工芝の上に載せられていて、気持ちよさそうに目を閉じ、うつ伏せで、四肢を草むらに投げ出すようにして昼寝している。
このアルマジロの何が面白いか、なのだが。
なんと温かいのだ。
内部に弱い電熱線が仕込まれていて、電源に繋ぐことで熱を発する。触ると金属の固さはそのままに、ほんのりと動物の体温を感じられる。これが何とも優しい温かさで、まるでこっちまで眠くなりそうなくらい。
「簡単な発想のようで、なかなか思いつかないよね。どうして、温かくしようと思ったの?」
不思議がる僕に対し、妻はあくまでのんびりと答える。
「うーん……せっかくなら、触った時に『おっ』てなってほしかったから……」
触って冷たいのなら、温めてしまえばいいのである。