SMAP解散。そのとき芸能界の大物たちはどう動いたか

「ザ芸能界 TVが映さない真実」第2回
田崎 健太 プロフィール

まずは、'55年に元々ジャズマンだった渡辺晋が渡辺プロダクションを、その後、渡辺プロ所属のギターリストだった堀威夫が'60年に堀プロダクションを設立した。

堀威夫は自分たちのことを「横文字系」と呼ぶ。

「演歌、浪花節の『縦文字系』だったところに、自分たち『横文字系』が現れた」

やくざと密接な付き合いのあった「縦文字系」とは異なる、近代芸能プロダクションの始まりである。そして、田邊もこの流れの中にいる人間だ。

田邊は'38年に東京で生まれた。前出の堀がリーダーを務めるバンドの下働きとして入り、やがてドラマーになった。'66年、自らがバンドリーダーだったグループサウンズの「ザ・スパイダース」と共にホリプロから独立している。

興味深いのは、「ザ・スパイダース」独立の際、田邊は楽曲の音楽出版権をホリプロに残す形で「仁義を切っている」ことだ。

芸能界の歴史は、「独立」と「引き抜き」の歴史でもある。

'63年4月に発足した「日本音楽事業者協会」(音事協)の一つの役割は、こうした引き抜きの防止だった。音事協には「縦文字系」と「横文字系」双方の大手事務所が名を連ねている。なおジャニーズ事務所は音事協に加盟していないが、メリーは加盟各社のトップと親しい関係を保っている。

ジャニーと田邊の共通点

田邊は元々音楽が分かるプロミュージシャンであることから、「横文字系」の経営者の中でも一目置かれていた。また、自ら表に出るタイプではないが、言わなければならないことは必ず言うという態度、誰に対しても媚びを売らない、落ち着いた雰囲気で、「縦文字系」の人間からも信頼されていた。'91年から'99年まで田邊は音事協の第4代会長を務めている。

筆者は昨年10月、田邊に話を聞いている。彼はそのとき、芸能界の仕事をこう定義した。

「全部、想像と空想と錯覚の世界なんだよ。虚実、皮膜紙一重を泳いでいるわけだ」

だからこそ、取りかえのきかない世界なのだと田邊は言った。

「田邊さん、あんただから仕事をする、あるいは我慢するよっていうのがある。そうじゃなきゃおかしいでしょ。それが面白くてやっている」

ジャニーズという帝国を一人で築き上げたジャニーの姿と被る。

「経営を考えたら代理がきいたほうがいい。でもぼくは芸能界というものが代理がきかないと思ってやってきた。だから今さら(代理を作ろうとしても)間に合わない。潔く、代理がきかない終わり方をどうするか、自分にとって興味がある。今後の始末の付け方をね」

田辺エージェンシーは、タモリ、研ナオコ、堺雅人など所属タレントを少数に絞っており、社員数も約20人に過ぎない。田邊が望めば、その規模を拡大する好機は何度もあったはずだ。しかし、彼はそうしなかった。

77歳となり引き際を考えていた彼が、自分と同じ匂いをまとったジャニーの「創造物」—SMAPに手を伸ばさなかったのは当然のことだろう。そして、他の事務所もジャニーズ事務所と事を構えてまで引き受けようとはしなかった。

その背景には芸能事務所そのものの変質もある。

現在、ホリプロや渡辺プロのトップは「創業者」からその子息たち「第二世代」に移っている。それは「個人」から企業という「組織」への移行を意味する。

SMAPは芸能界のこうした流れの中で行き場を失い、解散に追い込まれたという見方も出来る。

(第3回はこちら

「週刊現代」2016年10月15日・27日合併号より