SMAP解散。そのとき芸能界の大物たちはどう動いたか

「ザ芸能界 TVが映さない真実」第2回
田崎 健太 プロフィール

テレビ東京は他のキー局と較べると制作費が安く抑えられていた。スタッフは、まだ幼くプロ意識が高いとはいえないSMAPのメンバーを、どう魅力的に見せるか知恵を絞らざるを得なかった。それが思わぬ副産物を生み出すことになる。「おもしろ」への特化である。

その一例として、中居正広と香取慎吾がスタンダップコメディに挑んでいる。さらに、同時期に存在したバラエティ『浅草橋ヤング洋品店』や『進め!電波少年』を連想させるリアリティショー的企画もあった。例えば、元大洋ホエールズの加藤博一の「千本ノック」をメンバーが受けるというものだ。

すでに森、中居、木村の3人はそれなりの存在感があった。最年少の香取も少しずつ自分の色を出していた。残る2人のうち、稲垣は線が細すぎる。そこで草なぎが挑戦することになったという。草なぎは加藤から本当に千本のノックを受け、最後は「SMAPをやめたい」とまでこぼしたほどだった。

企画内容を、事前にジャニーはチェックしていない。恐らくオンエアーで草なぎがこうした扱いを受けたことを初めて知ったはずだ。だが、それに対してクレームはなかったという。「おもしろ」に向かう風潮をジャニーは感じ取り、「バラエティ耐性」ともいえるものを彼らにつけさせようと黙認していたのだろう。

以下は前出のテレビ局関係者の証言だ。

「彼らは学生だったので収録は2週間に一回。ジャニーさんは節目節目には顔を出しました。飯島さんは毎回顔を出していた記憶はありますが、彼女もすごく仕事が多くて忙しかった。収録が始まるとどこかに消えていた」

 

在京キー局で一つだけ沈んでいたテレビ東京と不遇をかこっていたSMAPの波長が合い、メンバーの個性を引き出すことに成功した。この『愛ラブSMAP!』のテイストはそのまま'96年から始まった『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)に引き継がれ、大きな成功を収めることになる。

人気は売り上げにも還元されていった。'98年、『夜空ノムコウ』が大ヒット。'00年の『らいおんハート』も150万枚を超えた。最大のヒットは、'03年発売の『世界に一つだけの花』だ。同作は現在までに累計出荷枚数が300万枚を超えている。

タモリが果たした役割

しかし、SMAPが国民的アイドルとなり、隆盛を極めてゆく時期は、テレビの時代の終わりの始まりでもあった。

視聴率の低下によるテレビ局の収益減少は、制作現場を疲弊させ、もともと対等なはずだった、テレビ局と芸能事務所の力関係にも影響を与えている。そして、連載第1回でも触れたように、ジャニーズ事務所はテレビ局に対して強い発言力を行使するようになった。

あるテレビ局幹部はこう言う。

「少し前、SMAPの扱いについて飯島さんが怒り、NHKのお偉いさんを事務所に呼びつけたという話を聞きました。NHKはそうした目に遭ったことがないから、さすがにびっくりした。それを知ったメリーさんが、また怒り狂った。メリーさんはそういうことはしない人ですから」

一連のSMAP騒動の引き金となったのは、すでに知られている通り、ジャニーの姉でジャニーズ事務所副社長のメリー喜多川と、SMAPのマネジャー飯島の衝突だった。

飯島はジャニーズ事務所を退社、SMAPをジャニーズ事務所から移籍させようと、芸能界の実力者、田辺エージェンシー社長の田邊昭知を頼った。ところが田邊はSMAPを引き受けることはなく、解散することになった—とされている。だが、これも複数の関係者の話を総合すると、少々事情は異なるようだ。

元テレビ局幹部はこう話す。

「まず中居が『笑っていいとも!』で共演していたタモリに相談したようだ。でも、タモリは中居とは付き合っていたが、SMAPには興味がない。仕方が無いので所属事務所の社長である田邊に話をすることにした。しかし、彼は動かなかった。その後処理のため、飯島は田邊と会ったのだ」

「芸能界の実力者」といえば、バーニング社長の周防郁雄、ホリプロ創業者の堀威夫などの名前が挙がる。しかし、芸能関係者の間では「ドン」といえば田邊であるとされる。それはなぜなのか。

田邊の来歴と人柄を説明する前に、芸能事務所の歴史に触れておく。

日本の芸能事務所の下敷きになったのは興行師の世界である。

演歌歌手のマネジメントを主体とする長良プロダクションを創業した、故・長良じゅんは興行師あがりであることに誇りを持っていた。生前、彼は筆者にこう語っていた。

「10代の頃から、ろくろっ首とかストリップとか(の興行)を全部やった。俺を育ててくれた親分というのは、全国仮設興行で一番偉い人だった。金魚すくいから綿菓子、神社のお祭りを親分のところで仕切っていた。当時の興行の人気は浪曲でね。糊の入ったバケツを持って、浪曲のポスターを貼ってまわったものだよ」

長良は、浪曲師の父、三味線弾きの母の間に生まれた。母親から口伝で浪曲を教えられ、8歳から舞台に上がっていたという。その後、浪曲を諦めて東京に戻った長良は、雪村いづみや弘田三枝子のマネジャーを務めるようになった。

こうした興行師中心だった芸能界がバンドマンに席巻されるようになる。そのきっかけが、'50年代後半に起こったロカビリーブームだった。