2016.10.17
# 音楽 # 文学

ボブ・ディランがノーベル文学賞をとった「当然の理由」

「文学の原型」を復活させた弾き語り
川崎 大助 プロフィール

たとえば、こんな歌がある。

「タイタニック号が夜明けに帆走する/そしてみんなが叫ぶ/「きみはどっち側にいるの?」/そしてエズラ・パウンドとT.S. エリオットが/船長のタワーで戦っている/カリプソ歌手たちが奴らを笑っているあいだ/漁夫らは花を抱えている」
(「廃墟の街 Desolation Row」、アルバム『ハイウェイ61再訪 Highway 61 Revisited』1965年より)

エズラ・パウンドも、T.S. エリオットも、高名な(文学側の)詩人だ。それらの詩人を、まるで弄ぶかのように「キャラ」として詩中に登場させるディランのやり口に、「かっこいい!」と、発表当時だれもが思った。

言うなればディランは、文学から影響を受けながらも、その門前で頭を垂れることなく、逆にギター片手に「正面から文学に戦いを挑んでいる」かのような、そんな姿勢の「歌」を世に放っていたわけだ(事実ディランはパウンドをかなり嫌っている。エリオットは、ときに誉めたり、くさしたり、いろいろ)。

ディランの歌で、文学との関わりが直接的に見てとれる作品は少なくない。歌詞のなかに登場してくる文学者の名前も多い。

ざっと思い出すだけでも、ジェイムズ・ジョイス、チェーホフ、コナン・ドイル、F・スコット・フィッツジェラルド、グリム兄弟、ヴィクトル・ユーゴー、メルヴィル、ニーチェ、ライヒ、佐賀純一、そしてアルチュール・ランボーとポール・ヴェルレーヌ(この二者には最も大きな影響を受けた、とディラン自身が認めている)。アレン・ギンズバーグら、ビート文学者たちとの交流もあった……。

このようにして、文学とつねに対峙しながら、「歌」を放ち続けていたのがディランのキャリアだった。

〔PHOTO〕gettyimages

ロックに自由の翼を与えた

繰り返しになるが文学とは「どのように読もうが自由」なものだ。数学のような公式や、それに沿った「正答」は、書く側にも読む側にもない(ある程度はあるのだが)。

であるから「好きに受け取ればいい」――ディランの革新によって、ポップ音楽は、ロックの歌詞は、古きくびきから解放された、と言ってもいい。

たとえばそれは、必ず最後のコマにオチがなければならない四コマ・マンガ程度のシンプルさから、「いろいろな受け取りかたのある、オープン・エンドで終わる長篇マンガ」ぐらいの、劇的な変化だった。

つまりロックに「文学と同レベルの抽象性を発揮してもいいんだ!」という自由の翼を与えたのはディランであり、だから、ビートルズそのほか、同時代のスーパースターたちまでもがみんな、彼の信奉者になった。彼から影響された。

 

ゆえに、このあとの時代のロックやポップ音楽家のほとんど大半は、なんらかの形で「ディランの功績」から学んでいる、とも言える(ラップ・ソングの大半だって、ディランなしにはあり得ない)。

そこでじつはロック界には、今回の顕彰について「文学の側も、ようやくわかったのか」「遅いんだよ」という意見が、なくもない(いや本当に)。

なぜ「いま」?

遅い、との意見が出たところで、「Q2」のほうに移ろう。「なぜ『いま』?」なのか――僕が思うのは、これは「読書環境の劇的な変化」の反映なのではないか、ということだ。

たとえば、スマートフォン、タブレット端末などで、人は日常的にテキストを読む。音楽を聴く。動画も見る。ということは、往々にして、以下のような状況となることがあるに違いない。

電子書籍を読みながら、そのバックグラウンドで「音楽」を流す。それが現代のポップ音楽だったら、歌詞があることが多い。だから目で文字を追う。耳で「言葉と楽器の音」を聴く。これをまったく同時に、一切のストレスなく、ひとつのデバイスから享受することができるようになったのが、現代だ。

そこには「印刷された文字のような」テキストがあり、「まるで目の前でだれかが歌っているかのような」音声で開陳されていく歌詞もある。動画だってある。そして言うまでもなく、「こんな環境で」言葉を受け取ることが普通の日常となったのは、人類史上、いまが最初だ。

そして、この環境において初めて「書かれた言葉」と「音声としての言葉」が、真の意味で等価に近づいた――いや、等価へと「戻った」とも言えるのではないか。遠くギリシャの時代の、たとえば詩と歴史書の関係のように。

もしかしたら我々は、文化史的にとてつもなく大きな曲がり角に差し掛かっているのかもしれない、ということを端的に告げる画期的な顕彰が、今回のディランだったのだと僕は考える。そしてこの大胆な顕彰は、その判断は、圧倒的に、正しい。

たとえば、20世紀の、とくにアメリカ文学は、映画からの影響が大きいと僕は考えている。スクリーンに映し出されている映像を、「目で見えるそのままに」英語でタイトに描写していくならば、その文体はかぎりなくヘミングウェイに近づいていくはずだ。

さらに、フィッツジェラルドやカポーティなど、少なからぬ文人が、脚本を書くなどして、映画界と深く関係していた。レイモンド・チャンドラー、近年ではエルロイなど、ミステリ系の作家で同様の行動をとることを好んだ者も多い。

「映画を観る」あるいは「映画を想像する」ところから叩き上げられてきたのが、20世紀アメリカ文学の一断面だったと言っていい。

そして言うまでもなく、映画からも、文学からも、大きな影響を受けつつ、20世紀の後半を「よし、まかせとけ」とばかりに引っかき回したのが、ロックンロールに端を発するポップ音楽だった。

であるならば、21世紀の文学は、順番から言って「ボブ・ディランのような」歌から影響を受け、「叩き上げ」られなければ、おかしい。てんで話にならない。そんなことを、僕は思った。

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