キリスト教を絶対に体内に取り込まない「日本文化」の見えない力

【連載】クリスマスと日本人(13)
堀井 憲一郎 プロフィール

子供は自分ひとりの考えで転向はできない。親に相談しないと、と考える。親がキリスト教徒でなければ、ふつう反対される。それが日本システムである。16世紀以来培ってきている「反キリスト体制」なのである。

クリスマスを教会で過ごして、饅頭と玩具をもらったくらいでは転向しない。ただ、キリスト教に対して漠然とした好意を持たせる、ということには成功はしているとおもう。

みんな表面的な気分ではキリスト教のことを悪くおもっていない。でもそれだけのことである。

日本の文化の底流の力

クリスマスは「子供の日」として、宗教的ではない行事として、日本に定着していく。

どこまでも、ひとつの風俗でしかない、ということである。クリスマスは、その周辺では騒ぐのだけれど、さほど重くとらえられた風俗ではないのだ。

たとえば、日本のクリスマスに関する学術的な研究、はほとんど存在しない。

お祭りというのは、明治以降、学術研究の対象となっていったが、クリスマスはそういう扱いを受けていない。明治以来受けておらず、いまだにそうである。

日本のクリスマスのあらゆる文献を片っ端しから見て行ったから、そのへんの状況はすごくわかる。何というか、言い方は悪いが「誰もまともに相手をしていない事象」なのである。

 

日本のクリスマスに関して、いつ始まったか、どれぐらい長くやっているか、どのように行われてきたのか、ほとんど誰も興味を持っていない。

つまり「明治時代からクリスマスのバカ騒ぎは始まっていた」と言うと、ほとんどの日本人が一瞬だけ驚く、ということを指している。驚くだけである。覚えない。何年か経ってその話をすると、みなまた、一瞬だけ驚く。忘れる。その繰り返しである。

どう考えてもこれは、何となく興味を持っていない、というレベルのものではない。

必死で興味を持たないようにしている、としか考えられない。絶対に興味を持たないように、みんなすごくがんばっているのだろう。すごくがんばっているのだから、とりあえず見守るしかない。それが、目に見えない日本の文化の底流の力である。

簡単に言ってしまえば、キリスト教はいつまでも舶来のものであり、外に存在するものであり、百年以上続いていようが、それは伝統的な存在としてはとらえない、ということである。明確な言葉にされていない。気分は共有している。とても強い文化的な力である。

その潜在する文化的な力によって、クリスマスの「救世主が地球上に顕れた日」という部分をまったく無視して〝無垢な子供の日〟として、のちに〝恋人たちの浮ついた日〟としてあつかわれていくことになる。

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