キリスト教を絶対に体内に取り込まない「日本文化」の見えない力

【連載】クリスマスと日本人(13)
堀井 憲一郎 プロフィール

どんどん日本仕様に

12月初めの記事は、たとえばこういう記事が載る。

「なかにも凝ったのは銀座の亀屋で『勅題・社頭の杉』にちなんだ店内一面の装飾は、芝居の舞台面を見るような大仕掛けになっている。日光陽明門を背景に、二抱えもある大杉を立て、商品はよしず張りの掛け茶屋の中に飾られてある」

「大鳥居、春日灯籠、絵馬や奉納額が、数十本の桜と杉のあいだに並んでいる。二階の朱塗りの大門の内では、エプロンをかけた美しい三人の給仕女が、誰彼の別なくココアを御馳走する」

こういう風景である。とても楽しそうだけれど、クリスマス飾りが「日光東照宮」を見立てた飾りの中に置かれているのである。

そのときの明治屋も同じく社頭の杉の趣向で、階段を石段に見立て、杉の大木が数本、花ざかりの紅白の梅の木が十数本置かれ、そのあいまに無数の豆電灯が点滅している。

どちらも大正2年末の風景である。新年の「歌合わせ」のお題が「社頭の杉」と発表されたので、そういう趣向になったらしい。天皇家と神社と杉の木と、それとクリスマスが違和感なく(少しはあるが、まあ気にするほどではない)ここに同居している。

日本人は、自分たちに馴染めるようにクリスマスをどんどん変えて取り込んでいった。

〔PHOTO〕iStock

完全に子供向けだった

この時期のクリスマスは、完全に「子供向けのもの」として設定されている。

それは明治のころからそうだったし、昭和の終わりまでそうであった。

クリスマス贈物として紹介されているのは子供向け玩具だし、25日(前後の)クリスマス会も、ほぼすべて「子供向けの会」として報告されている。

 

「番町教会、午後一時過ぎ、太陽が斜めに堂内に流れこんで子供らの林檎のような顔はひときわ映えて美しい。唱歌も対話も表情も可愛らしい出来。日本メソヂスト教会でも、少年少女はよそ行きの着物を着飾って続々参集、今日は上草履が新しくなったと、なにからなにまで嬉しがる(……)十一時に散会した、子供たちは「もう一度クリスマスが来て欲しいなあ」と言っていた」(1913年大正2年)

「師走の街を尖り顔をして急ぐ人々をあとに教会のクリスマスに入ると、飾り立てた贈物いっぱいのツリーと自分の晴れ着を見比べて、茶目君はしきりにはしゃいでいる、べそ子は皹(ひび)の切れた頬を林檎のように紅くして、にこにこする、どこの教会も同じように嬉しそうな気分がみなぎっていた」(1915年大正4年)

「嬉しい歩みを教会堂へ運ぶいたいけな幼児が、昨日は昼から夜にかけて、各所の基督教の会堂を賑わした。クリスマス、どんなにか一年のあいだを彼らは待ち侘びたのであろう、教会はまばゆいほどいつものように飾っている」(1918年大正7年)

あくまで「可愛い子供たちのお楽しみ会」というのが教会でのクリスマス会の様子であり、大人たちは微笑ましくそれを見守る、という形になっている。大人がその輪に入るときは、童心に帰って、つまり子供と化して入るばかりである。どこまでも、クリスマスは子供のための祝祭であった。

これも、「キリスト教祝祭の外側だけ受け入れて、その中身は受け入れない」日本方式のひとつであろう。(もともと欧米においてもクリスマスは子供向けの側面があるが、日本ではよりそこを強調しているようにおもう)。

教会での〝本格的なクリスマス〟は本来、信者のための空間である。ただ、子供だったら非信者でもいいだろう、という判断のようだ。

ものごとの判断がつかない子供だから、かまわない。

非キリスト教日本人からすれば、べつだんこれで子供がキリスト教徒になるわけではないから楽しいならいいだろう、ということである。

キリスト教会側としては、子供のころから通わせるとひょっとしてキリスト教徒が増えるのではないかという目論見があるのだろう。

数字から見るなら、日本人側の判断のほうが合っている。子供のころにキリスト教教会に通ってもべつだんキリスト教信者になるわけではない。それは〝ミッション系の中高一貫校〟に6年間通い、キリストの言葉に日々触れていようと、キリスト教に転向する者がほとんど存在しないのと同じである。