ついにバラエティ復帰する古舘伊知郎の「覚悟と勝算」

挑むは各局しのぎを削る激戦区
てれびのスキマ プロフィール

入社試験では様々なスポーツのVTRから2種目を選ばせ、実際に実況をさせた。古舘が選んだのはもちろんプロレス。実は古舘は大学時代から、プロレス実況をやっていた。休み時間になると親友の二人がプロレスごっこを始める。それに古舘が実況をつけて遊んでいた。やがてそれが評判になり、果ては学校内にあるチャペル前で“興行”まで行うようになった。そこには100人以上の“観客”が詰めかけたという。

入社試験で披露した古舘のプロレス実況は、まだ「ジャイアント馬場、16文であります」などという日本テレビの『全日本プロレス中継』流のスローテンポなものだったという。だが、その技術は新人の中で飛び抜けていた。

オリンピックへの準備もあって、古舘は入社1年目にして舟橋に代わり、プロレス実況を担当することになった。

肝心のモスクワ五輪は日本がボイコットしたことで、テレビ朝日にとっては受難となったが、結果的に古舘をはじめとした新人たちが育ったという意味では大きなものだった。

先輩アナによる鬼の指導

この頃のテレ朝のアナウンス部は封建的で厳しかったという。取材から帰って「お疲れ様~」などと挨拶しようものなら檄が飛ぶ。「ただいま戻って参りました」とキチンと滑舌を意識して言えと叩きこまれた。

出前を取る時でもそうだ。普通に頼もうとすると「かけ直せ!」と先輩から怒鳴られる。「もしもし、こちら、テレビ朝日本館4階のアナウンス部であります。ざるそば5つ、繰り返します、ざるそば5つ」と、普段から常に実況口調で生活をしていたのだ。電車の中でもその車窓に映る風景を実況し、訓練していった。

舟橋は、古舘ら新人たちを六本木の交差点に連れて行った。そこで実況の練習をさせるためだ。それをテープに録って、近くの焼鳥屋で反省会まで行う。

「ここはこういうふうにしなきゃダメだ」「この表現はおかしいんじゃないか」と。
古舘への実況にも、舟橋からダメ出しが飛んだ。

 

「お前の感覚には色がないのか? 音がないのか? そして肌を感じるものがないのか? 五感で感じることを伝えていかなかったら、聞いてる人はイマジネーションがわかないんだよ」(※『KAMINOGE』Vol.58)

古舘のプロレス実況に対しても、舟橋は「選手になりきって表現しろ」と指導した。

そうして鍛えられた滑舌や表現力と、独特な言い回しを武器にプロレス実況で一時代を築いた古舘は84年にテレビ朝日を退社し、フリーに転身した。

かつて日本テレビでプロレス中継を担当した徳光和夫はこのように語っている。

「プロレスはほとんど取材をせずにできる仕事なんです。他のスポーツはだいたいなんでも取材しなきゃなんない。取材したものを自分で咀嚼して、自分の言葉でアナウンスするっていうのが実況の原則なんですけれども、プロレスはレスラーが取材を嫌がるわけですよ。

それですから、いま映ってる画面をどういうふうにしゃべろうかっていうことで、言葉を組み立てなければならない。そのことが、ひとつやっぱりアナウンサーのしゃべりとしてのトレーニングになるわけです。

それが後に、古舘伊知郎とかですね、福澤朗とか、こういった連中もフリーになって、ある意味で喋り手、話し手として成功しておりますのは、プロレスをやってる、このことがですね、やっぱり彼らが言葉の魔術師といたしまして、今日あるんじゃないかなというふうに思うんでありますけれども」(※『徹子の部屋』2016年6月17日)

バラエティの世界に活動の場を移し、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)の「ひょうきんプロレス」で覆面アナウンサー「宮田テル・アビブ」に扮し実況。また『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)など数多くの番組で司会者としての地位も確立。果ては『紅白歌合戦』の司会を3年連続で務め上げた。

さらにひとり語りの公演「トーキングブルース」などを開始。並行してF1やオリンピックなどのスポーツ実況も続けた。90年代、古舘はあらゆるところでしゃべり続け、確かな地位を築いていた。

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