ここまでやるの? 完璧主義者ヒラリーのディベート対策、その舞台裏

驚異的な速読と暗記力
渡辺 将人 プロフィール

アメリカで現代の政治家にディベートがテストとして課されているのは、演説はプロンプターという文明の利器に頼ることもできるからだ(オバマはアドリブも好んだ)。政治家のコミュニケーション力の化けの皮をはぐには欠かせないと考えられている。

2004年の大統領選挙ではブッシュ息子(ジョージ・W・ブッシュ)の背中のスーツ下に音声受信機のようなものが挟まれているのではないか、参謀のカール・ローブが耳に入れているのではないかという「陰謀論」まがいの話が一部で膨らんだ。ブッシュ息子はディベートがまるで苦手だったからだ。オバマは「両刀」だが、前述のようにどちらかといえば演説派である。

議会選挙のディベートはヒラリー向きだった。大統領選挙ほどには人格が評価基準の重きを占めず、個別の政策にスポットが当たるからだ。政策論争になればヒラリーは俄然力を発揮する。

上院選当時、ヒラリーの相手候補の共和党下院議員は、投票棄権歴が多く政策に弱さを抱える中、若さと爽やかさでヒラリーを脅かそうとしていた。人格論争に持ち込まれないよう、「政策面では絶対の自信があることを示し続けること」が陣営戦略の骨子だった。

ゴア副大統領という反面教師

ただ、政治家が選挙戦で行うテレビでのディベートは、名称こそディベートという名がつけられてはいるが、アカデミックなディベートのように政策の有効性と論理的説得力で優劣が決まるわけではない。

 

大統領選挙ディベートは表情や抑揚に滲み出る風格込みで評価される点で演説と競技ディベートの間に位置している。専門知識とロジックだけに偏れば、議論には勝っても、「勝負」に負ける。

アメリカ政界でも語り種になっているのが、2000年大統領選挙での民主党のアル・ゴアとブッシュ息子のディベートでの「事件」だ。

ゴアは数字を入れさえすれば説得力が増すという勘違いをおこし、1回目の討論で数字の引用に固執したが、ブッシュに「いい加減な数字(Fuzzy Math)」だとデータの信憑性を一蹴され信用を失った。

ゴアは前述のように、準備過程では政策の細部を詰める努力をしていなかったのに、数的データで威嚇する戦法をとった。対するブッシは、知識や雄弁さで自分を飾らず徹底して「普通のおやじ」を演じた。

また、ゴアはブッシュが見当違いのことを言い出すとため息混じりに薄笑いで小首をかしげてみせた。緊張してたどたどしくても「誠実」だったのはブッシュという声が強まり、「ファクト(知識)ではゴア、スタイル(姿勢)ではブッシュ」とメディアは伝えた。

ヒラリーにとってゴアは最大の反面教師である。別稿「トランプの『強さ』と民主党の隠れた『急所』」で述べた3分類でいえば、ディベートは「玉」を吟味する機会だが、政策能力だけでなく、人物的魅力が審査基準として外せない。

素顔のヒラリーは情に厚い親分肌だが、有権者はメディアを通して判断する。2008年予備選ディベートで「彼(オバマ)の好感度の高さには同感ですが、私もそんなに酷くないと思いますよ」とヒラリーが言うと、オバマは「あなたも最低限の好感度ならありますよ」と返した。公の舞台で恥をかかされたのだ。

ブッシュ息子とは違う意味で「気さくなおやじ」であるトランプは、「人物的魅力」でヒラリーを脅かすかもしれない。ヒラリーにできることは、準備だけはいつも通り完璧にしておくことだった。

初回ディベートの様子は次稿「杞憂に終わった『トランプの乱』」(gendai.ismedia.jp/articles/-/49849)で検討した。