明治日本初のクリスマス、サンタクロースは殿様姿で登場した

【連載】クリスマスと日本人(9)
堀井 憲一郎 プロフィール

日本人の知恵

前回紹介したのは〝宗教としてのキリスト教〟をどこまでも排除していこうとする明治日本の動きである。

〝文化としてのキリスト教〟は受け入れる。

キリスト教周辺の文化は、ある憧憬と、そこそこの違和感を抱えつつ、日本に取り入れられていった。洋行帰りのインテリ層が、その役目を担った。それもだいたい上流階級(士族周辺)のインテリである。

明治初期のキリスト教は庶民とは無縁のものであった。英語やフランス語がわかっているものだけが、キリスト教の近くにいた。そのへんが16世紀とずいぶん状況がちがう。

そして、キリスト教の文化のなかでも「クリスマス」が突出して受け入れられていく。

これは日本の問題ではなく、クリスマスのほうの問題だとおもう。

クリスマス祭祀が、キリスト教のなかでも目立って異質だったということだ。そこに気がついた日本人は、自分たちでも参加できそうな西洋的祭祀として、クリスマスを積極的に社会に取り入れていったわけである。

日本におけるクリスマスの受容の歴史は、〝キリスト教から宗教部分を抜くと、何が残るのか〟に対する回答のように見える。

日本人の答えは「クリスマスが残ります」ということになる。

明治から平成にかけてのクリスマス受容の動きは、「西洋文化を取り入れつつも日本らしさを保とうとする努力の歴史」であり、日本人が世界を相手に生き抜く知恵だと見ることができる。

明治最初のクリスマス

あらためて明治になってからの日本の〝降誕祭〟の模様を見ていく。

いくつかの書籍と、新聞記事でクリスマス世相を追っていきたい。

基本は東京の朝日新聞(朝日新聞東京版)である。ただ、東京の朝日新聞が始まるのはわりと遅く明治21年(1888)からである。明治の前半は東京には朝日新聞がなかったのだ。それ以前は別の資料から拾っていく。

東京の異人居留地は、築地にあった。

このエリア内にキリスト教徒である異人たちが多数住まいをなし、また各国領事館や公館、それに教会やミッション系の学校などがあった。開国以来、江戸東京における別世界であり、異人文化が存在し、また受け入れる場所であった。

のち、銀座周辺にもキリスト教関係の建物や場所がいくつか開かれ、築地から銀座エリアが、日本のクリスマス先端地域となっていく。

日本人による明治以降の最初のクリスマスは、1874年(明治7年)、この築地居留地内にあった学校内で行われた、とされている。

東京の女子校御三家「桜蔭・雙葉・女子学院」のひとつ〝女子学院〟の発祥は、1870年(明治3)に築地居留地に建てられた〝A六番女学校〟にある。

1874年に原胤昭(はら・たねあき)らがそこで初めてのクリスマスを開いた。

この一件に関するタネ本はひとつである。

銀座の教文館出版から出ている『植村正久と其の時代』。昭和13年(1938)刊行(1976年復刻)の本である。その第二巻の十一章「我國に於ける最初のクリスマス」とそのものずばりのタイトルで書かれている。昭和初年にクリスマスは空前のブームを見せるので、その時代を反映してルーツを探って書かれたものだとおもわれる。

原胤昭本人から聞いた談話として記されている。

原は江戸育ち、もと幕臣、この1874年にキリスト教に入信した。当時数えて22歳の若者である。入信の感謝のしるしに、その年のクリスマスを盛んにやりたい、と祝会を企画した。

1874年の築地で、日本人がクリスマスを開いたのはたしかなようだが、これが日本人による明治期の初めてのクリスマスかどうかは、きちんと検証されているわけではない。

1873年やそれ以前の神戸、大阪、横浜、長崎、函館などで、どういう降誕祭が開かれていたかの精密な記録がなく、またその調査が行われていないため、反証できないだけである。厳密には、現在のところ書類で確認できる明治期最初の日本人によるクリスマス、となる(煩雑なのでそうは記さないが)。