『君の名は。』が、感動のウラで消し去ってしまったもの

無邪気にこの作品を楽しむことへの疑問
貞包 英之 プロフィール

メタとしての「君の名は。」

こうした結末から『君の名は。』をみなおすとき、実は東京の巨大化とその肯定こそ物語の主題であるかのように浮かび上がってくる。

物語をあくまで散文的に見直せば、『君の名は。』は、故郷のない男と、故郷を失った女が、東京で故郷の幻想と特別な異性を妄想する話といえるのかもしれない。退屈な日常の代償であるかのように、失われた美しい「地方」が妄想され、それに共感できる異性が探される。

物語の背後にこうした散文的「現実」が解釈可能とすれば、『君の名は。』には、近頃さかんな地方賛美的なアニメとの一種の連続性が読み取れる。

大洗を舞台とした『ガールズ&パンツァー』、『君の名は。』と同じ岐阜を舞台にする『氷菓』など、近年、美しい地方を背景とした「ご当地」アニメが人気である。

これらのご当地アニメは、地方を大都市の理想にかない、それゆえ「消費」可能な商品に仕立てるが、『君の名は。』はそうした地方の「夢」を内部に組み込む。すでにない「糸守」を美しく夢見る二人が、その夢を手がかりに、運命の相手と巡り合う。ご当地アニメのメタ的な構造を、『君の名は。』は入れ込んでいる。

この意味で『君の名は。』は、巨大化する大都市が消費可能なものとして地方を再編し、自分の内部に取り込む一つの形式として人気を集めたとみることができる。

屈折や鬱屈を忘れることへの不満

もちろんメディアのなかで地方が消費されるのは、これが初めてではない。

ご当地の民謡が数多く作られた1920年代の新民謡運動、また1970年に国鉄が始めたディスカバー・ジャパンブームなど、地方に目を向け、消費する流行を近代日本はくりかえしてきた。後世の歴史家からみれば、2010年代の「ご当地」アニメの流行や、さらに『君の名は。』のヒットも、そのひとつとみえるかもしれない。

ただしそうして地方が消費され続けてきた一方で、それと並行して戦後のアニメやマンガが、地方の軽薄な理想化に一定の留保を付け加えてきたことも無視してはならない。

地方を賛美するだけではなく、それへの陰鬱な思いやアンビバレンツな感情を描くこと。たとえば少女漫画に地方社会を持ち込んだ記念碑的な作品として、紡木たくの『瞬きもせず』(1987-1990)が思い出される。山口を舞台にしたその物語では、「何もない場所」としての地方に対する高校生の鬱屈がよく描かれていた。

またはより最近の岐阜の田舎を舞台とした『ひぐらしのなく頃に』(2002-2006(ゲーム))では、当初理想的な田舎として描かれる村が、実は血みどろの争いに引き裂かれた場所であることが分かる。「残虐な地方」そのものが消費のために誇張された像ではあるが、単純に地方を賛美することへの反省がそこに込められていたことも否定できない。

『君の名は。』が消し去っているのは、こうした戦後サブ・カルチャーが積み上げてきた理想化された地方に対する反省なのではないか。少女漫画からセカイ系へと続く「居場所」探しの逡巡を「終わらせる」ことに並行して、『君の名は。』は、ご当地アニメ同様、戦後サブ・カルチャーが積み重ねてきた地方への鬱屈や屈折をきれいに漂白する。

その意味で私が不満を持つのは、充分によくできたといえる『君の名は。』という作品そのものに対してではない。

不満があるのは、無邪気にその作品を楽しむことによって、戦後のサブ・カルチャーが地方に対して積み重ねてきた反省や屈折の歴史を忘れ、それで良しとしているこの社会に対してなのである。

貞包英之(さだかね・ひでゆき)
山形大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程単位取得満期退学。専攻は社会学・消費社会論・歴史社会学。著書に『地方都市を考える 「消費社会」の先端から』『消費は誘惑する 遊廓・白米・変化朝顔~一八、一九世紀日本の消費の歴史社会学~』など。