例えば上野では、
「朝鮮人を1人つかまえたといって[上野の]音楽学校のそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒切れをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。わたしはわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました。小柄なその朝鮮人はすぐにぐったりしました」(女優・清川虹子『恋して泣いて芝居して』主婦の友社、1983年)
という証言があり、神楽坂では、
「[神楽坂警察署の前で]突然トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、力まかせに、つかまった2人のうち、一歩おくれていた方の男の頭めがけて振りおろしかけた。わたくしは、あっと呼吸をのんだ。ゴツンとにぶい音がして、なぐられた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭に振りおろしたのである。ズブリと刃先が突きささったようで、わたくしはその音を聞くと思わず声をあげて、目をつぶってしまった」(フランス文学者・中島健蔵『昭和時代』岩波書店、1957年)
という証言がみつかった。
気がつけば、有名無名、老若男女にかかわらず、集めた証言は1100を超えていた。
これら一つ一つの証言には、体験した本人にしか語れない“具体性”があった。こうした証言からのみ、朝鮮人虐殺の実態が皮膚感覚として伝わってくるように思う。
どんな歴史的事実も知るすべがなければわからないままで終わってしまう。それは同時に「なかったこと」にされてしまう危険性を孕む(とりわけ加害の歴史はその傾向が強い)。震災時の朝鮮人虐殺事件もその例に漏れない。だが体験者・目撃者たちの声に耳を傾ければ、私たちは事実に向き合わざるを得ない。
1100の証言が訴えかけるのは、何か。それは、悲劇から90年後を生きる私たちが、事実を知り、見つめること、そして亡くなった方を悼む気持ちのたいせつさではないだろうか。
こうした証言を集めた本がやっと完成した。『関東大震災朝鮮人虐殺の記録 東京地区別1100の証言』(現代書館)である。この本が多くの人の目に触れることを願っている。