政府によって徹底的に隠蔽された「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相

1100の証言がいま伝えてくれること
西崎 雅夫 プロフィール

虐殺の証言とともに歩く 旧四ツ木橋

次いで電車で移動し、荒川放水路土手近くの京成八広駅で降りる。2分ほど歩くと、土手下に「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」がある。すぐ近くの土手にあがると、そこは旧四ツ木橋があった地点だ。

旧四ツ木橋

震災時、この旧四ツ木橋は火災を逃れた避難民が集中した。同時にここは、荒川放水路開削工事や街中の工場で労働に従事していた多くの朝鮮人もまた多く避難した場所でもある。ここで自警団と軍隊による虐殺の目撃証言を紹介する。

「たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」(青木(仮名))

「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」(浅岡重蔵)

証言を聞きながら現場に立つフィールドワークはこうして終わる。

企業の一般的な人権研修がどのようなものか私は知らないので「こんな内容でいいのか」と思いながら案内しているのが実情だが、「何があったのか」という事実から出発しないと空論の研修になってしまうので、今後もこのような形式で行っていくつもりだ。

 

「証言を集めるしかない」

私自身がこうした活動をするようになったのは大学4年生の時からだ。

荒川が流れる墨田区八広の旧四ツ木橋付近の河川敷に「関東大震災の時に殺された朝鮮人の遺骨が今も埋まったままになっている」という話を聞いて、1982年に「追悼する会」が発足すると同時に参加した。

それからもう34年目になるが、上記の証言を聞いた時の衝撃はいまだに薄れない。自分が中学生の時に毎日のようにサッカーをして遊んでいた場所のすぐ近くが虐殺の現場だったからだ。

1982年9月に最初の追悼式と河川敷の遺骨の「試掘」を行ったが、遺骨を見つけることはできなかった。それからも再度の遺骨発掘をめざしてさまざまな調査をしたが、震災の年の11月の新聞に遺骨が警察によって2度にわたって発掘・移送されたことが記載されており、発掘は断念せざるを得なかった。

1982年、旧四ツ木橋付近で行われた遺骨の試掘〔撮影〕裵昭〔ペソ〕

冒頭でも書いたが、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の全体像はいまだにわからないことが多い。

それは当時の政府が事件を隠蔽してしまったからであり、その後の政府が真相究明のための調査を行なってこなかったからである。したがって事件の公的資料はきわめて少ない。

そうした状況で知られざる虐殺の実態に迫る一つの方法として、証言を集めるという結論にたどり着いた。

「追悼する会」に参加したことで、墨田区北部での朝鮮人虐殺事件については多くの証言に触れる機会を得て、ある程度実態を知ることができた。では、自分が生まれ育った東京全体ではどうだったのだろう? そんな疑問がふと湧き上がってきた。

事件から90年近く経ってしまった現在、事件を語れる人はほとんど生存していない。

しかし刊行された本(自伝・日記等)の中から事件の体験・目撃証言を探し出すことなら素人の私にもできるのではないか。そう考えた私は、主に東京23区内の図書館をめぐってひたすらに関連する証言を集め続けた。

図書館で書棚を猟渉するうちに、朝鮮人が住んでいた地域では必ずといっていいほど虐待・虐殺事件が起こっていたことにあらためて気づいた。